活動レポート

山折哲雄 × 竹内洋 第1回 日本の知識人は、なぜ「日本回帰」するのか


山折座長と対談していただく3人目の有識者には、『教養主義の没落』などの著書がある竹内洋・京都大学名誉教授を迎え、3回に分けて日本の教養と知識人について語ります。

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究極の知識人の晩年に、共通すること

山折:私の体験談から話しますと、20年以上前に、精神分析家の土居健郎さんと対談したことがあります。当時は、土井さんが執筆した『「甘え」の構造』が話題になっていて、論壇でも論争の対象になっていました。土井さんは、戦後にアメリカやヨーロッパに留学して、近代的な精神医学の勉強をして帰国した後、夏目漱石の分析を通して、『「甘え」の構造』を執筆しています。 その対談の最後に、「日本人の思想家や文学者の中で、いちばん尊敬する方はどなたでしょうか」と質問しました。すると、意外なことに、「良寛」という答えが返ってきたのです。 世に時めくヨーロッパ近代思想の成果ともいうべき精神分析学を学んでいる先生が、「良寛」と答えたことに驚きました。その理由を聞くと「やっぱり自分は西洋の学問ずっとやってきて、それにより自分の全人格が形成されていたと思っていたけれど、心が安定するのは良寛だ」と。この出来事は忘れられませんね。 その話との関連で思い出すのは、戦前から戦後にかけて日本の歴史学に大きな影響を与えた、津田左右吉です。彼は著書の『文学に現はれたる国民思想の研究』の中で、日本の伝統的な思想家や宗教家を徹底的に批判し尽くしています。ただ、ひとりだけ例外的に褒めているのが、小林一茶です。そのことを今ふと思い出しました。 この話の流れでもうひとり付け加えたいのが、鈴木大拙です。彼は禅の思想や仏教の哲学を英語にして、世界の人に伝えようと努力しました。そして最後に彼が行き着いた世界が、妙好人(みょうこうにん:浄土真宗の信者で、ひたすら念仏の世界に生きる人)だったわけです。 この現象はいったい何なのか。日本を代表する究極の知識人が、西洋の諸思想を遍歴した果てに戻ってくるのが、一茶であり、良寛であり、妙好人である。これは単純に「日本回帰」というステレオタイプな定義でけじめがつくのか。真の教養というのは、そこまで考えないと、身に付かないでしょう。 竹内:先生の言うことはよくわかります。同じようなタイプは多いですね。 教養主義の元祖といわれた魚住影雄も、一灯園設立者の西田天香に傾倒していきました。ほかに阿部次郎も、ヨーロッパ留学から帰国し、東北大学に赴任してから日本文化研究に熱心に取り組みました。 山折:歌舞伎、浮世絵の世界にのめり込んでいくわけですよね。 竹内:そうです。それから有名な知識人でなくても、たとえば私が専門とする社会学の領域でもそういう人がいます。 そもそも社会学は、アメリカや西欧の学説史研究が中心で、日本的なのものとは遠い。しかし、社会学者としてかなり業績を上げて外国の社会学を紹介してきた人が、晩年になると、仏教社会学や仏教学に取り組んだりしています。 山折:もうひとり付け加えると、南原繁もそうですね。南原は、戦後の日本の知識人では最高峰といえる人です。
山折哲雄(やまおり・てつお)    こころを育む総合フォーラム座長  1931年、サンフランシスコ生まれ。岩手県花巻市で育つ。宗教学専攻。東北大学文学部印度哲学科卒業。駒沢大学助教授、東北大学助教授、国立歴史民俗博物館教授、国際日本文化研究センター教 授、同所長などを歴任。『こころの作法』『いま、こころを育むとは』など著書多数

山折哲雄(やまおり・てつお)
こころを育む総合フォーラム座長
1931年、サンフランシスコ生まれ。岩手県花巻市で育つ。
宗教学専攻。東北大学文学部印度哲学科卒業。
駒沢大学助教授、東北大学助教授、国立歴史民俗博物館教授、
国際日本文化研究センター教授、同所長などを歴任。
『こころの作法』『いま、こころを育むとは』など著書多数

南原は晩年になって歌集を出版しています。岩波文庫に入っている『形相』という本です。その本の編纂者である、愛弟子の丸山眞男と福田歓一が「先生のお仕事の中で、いちばん後世に残る作品は何だとお考えになりますか?」と質問していますが、南原は『形相』と答えています。政治学者として多大な実績を残し、岩波書店から全集まで出している南原が、「後世に残るなら歌集」と言っているわけです。 ほかに戦前で言うと、マルクス主義者の河上肇も歌集を出しています。こうした例を考えると、どうも短歌の世界というのは、日本人の生命観の基礎をなしているように思えます。それなのに、日本人自身が短歌の世界を必ずしも教養と認めていないところがある。 しかし私は短歌の世界こそが、教養の基礎ではないかと思い直しているのです。単なる「日本回帰」ではなくて、日本人、あるいは、日本近代の教養の基礎は、短歌的リズムだったのではないかという解釈です。 竹内:それは、若いときはあまり気づかず、いろいろ遍歴してそこにたどり着くということでしょうか。 山折:人間としての成熟と共に自覚されていく、というふうにみることも可能です。 日本の明治以降の近代教育は、まず西洋の学問、西洋の教養を身に付けるところから始まっています。自分たちが生まれ育った文化的土壌、教養を生み出しているはずの文化的土壌を否定まではしなくても、それをいったんカッコに入れて、棚に上げて、まずヨーロッパから学ぼうという姿勢です。それこそが日本的教養の革新だと誤認し始める。成熟するにしたがって、その事実にハッと気づくという解釈です。 竹内:それは成熟でしょうか、それともコンバージョンというか、ある種の回心でしょうか? 山折:改心という解釈ではないでしょうね。改心ならば、それまで自分の人格なり生き方を支えてきた西洋的教養、つまりリベラルアーツに対してもっと批判的な総括をするでしょうから。しかし、日本の知識人はそういうことをしませんね。

インテリが、吉本隆明を恐れた理由

竹内:私より少し上の世代の大学教師で、社会学者を定年までやった後、「もういっさい社会学の本はいらない」と言って売ってしまった人がいます。そして最近は、時代小説ばかりを読んでいるそうです。私からすると、「今まで勉強してきた社会学というのは、その人にとって何だったのかな」と感じるわけですが、日本回帰の大衆インテリ版ですね。 山折:そういう問題に敏感に気がついて、批判し続けたのが、吉本隆明です。彼は、伝統的なリズムというか、短歌的な抒情の問題まで含めた詩の世界をつまみ出して、「大衆の原像」という概念に到達し、それを提唱しました。
竹内洋(たけうち・よう) 1942年新潟県生まれ。京都大学教育学部卒業。同大学院教育学研究科博士後期課程単位取得満期退学。京都大学大学院教育学研究科教授などを経て、関西大学人間健康学部教授、京都大学名誉教授。専攻は歴史社会学、教育社会学。著書に『教養主義の没落』『革新幻想の戦後史』などがある

竹内洋(たけうち・よう)
1942年新潟県生まれ。京都大学教育学部卒業。同大学院教育学研究科博士後期課程単位取得満期退学。京都大学大学院教育学研究科教授などを経て、関西大学人間健康学部教授、京都大学名誉教授。専攻は歴史社会学、教育社会学。著書に『教養主義の没落』『革新幻想の戦後史』などがある

竹内:吉本は、動員戦略にたけています。昭和30年代以降は、インテリと大衆の境がはっきりしなくなって、成り上がりインテリみたいな人が多くなった時代です。当時のインテリは、親が大学を出ていない世代だったので、大衆コンプレックスがあった。そういう逃亡奴隷的上昇インテリのコンプレックスを払拭させる「大衆の原像」を呈示しました。 私も「大衆の原像」を読んだ世代ですが、あれは非常に訴求力があるというか、心にストンと落ちるものであったことは確かです。 山折:吉本は「自立、自立」と言っています。「人間が自立する、思想が自立するということは、教養の根底をしっかり自覚し、そこを出発点にするということだ」と彼は呼びかけたわけです。 ある日本の国際賞がありまして、私は一時期、人文社会系の審査委員をしていました。この賞は、全世界から候補者を募るわけですが、その中に、毎回、吉本隆明の名前が出ていました。 受賞者を決める最後の議論のときに、私は吉本支持で一席弁じたものです。これこそ西洋の借り物ではない日本の知識人の思想ではないかと。しかし、全然ダメでした。東京、京都のアカデミズムの人々は完全無視でした。しかし、昨年、吉本が亡くなると、メディアもアカデミズムも吉本への賛美ばかり。それを見て、どこに自立の精神があるのかと思いましたね。 竹内:おそらくその人たちは、吉本が、アカデミズム知識人が隠蔽しているものを仮借なく暴くから、本当に嫌だったのでしょう。その意味で、吉本の思想は、アカデミズム知識人のアイデンティティと自明にしているものを根底から崩させるような、それだけ鋭い刃だったのだと思います。だから、彼らは吉本をはねつけたのでしょうね。 「思想家というには、あまりにやせこけた、筋ばかりの人間の像がたっている。学者というには、あまりに生々しい問題意識をつらぬいている人間の像がたっている。かれは思想家でもなければ、政治思想史の学者でもない。この奇異な存在は、いったい何ものか?」で始まる丸山論なんかがそうです。   ※ 続きは次週掲載します