活動レポート

山折哲雄 × 葛西敬之 後編 真のグローバルリーダーに求められるもの―多くの日本のリーダーは勘違いをしている


山折座長と対談していただく7人目の有識者には、東海旅客鉄道名誉会長の葛西敬之氏を迎えて、前・中・後編に分けて日本の教育のあり方について語っていただきました。今回は後編です。 ※対談(前編): 人間とは何か、日本人とは何か、汝は何ぞや―旧制高校が教えていた3つの大事なこと ※対談(中編): 100年に1度、人間も社会も劣化する―人間は放置をすれば限りなく野生化

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山折:次のテーマに移ります。移るといいましても、教育ということ、人間学ということではつながりがあるのですが、昨今よく言われるグローバルリーダーということについて、お話を伺いたいと思います。

まずは「日本人」であれ

葛西:最近になってグローバルリーダーという言葉をよく聞きます。しかし、グローバルリーダーとは何かという定義は、きちんとなされていません。英語ができればいいと言う人もいます。東大のように、外国人の学生が日本の大学にたくさん来て学ぶようになれば、日本の大学がグローバル化すると言うような人もいます。 しかし、言葉はできたほうがもちろんいいですが、問題はやっぱり人間力だと思います。人間力をもって、相手に対して対等、互角、あるいはそれ以上の立場で接することができる人間が、グローバルリーダーになり得るのだと思います。ということは、それこそ自分は何だと、人間は何だと、日本人は何だということについての見識がないと、絶対に尊敬されません。 山折:そのとおりだと思います。まずは日本人でなければならない。 葛西:私もアメリカ人やイギリス人ともよく付き合います。特にイギリス人がそうなんですが、共通の世界観、歴史認識、知識をお互いが持ち合っているときに初めて、話しても意味のある人間だと判断する傾向があるように思います。 アメリカ人は、とくにビジネススクールを出た人は、経営にしても何にしても、すべては技術だというふうに考える傾向がある。しかし、やはり尊敬されている人は、人間の生き方、国家のあり方についての考え方を持っている。世界はどういう主権国家の合同体なのか、それがどうこれから動くかという世界観、歴史観、地政学観、文化観を持っています。こうしたものがグローバルリーダーの要件だと思います。

見識があってこそ、沈黙が説得力を増す

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葛西敬之(かさい よしゆき)●1940年生まれ。東京大学法学部卒。1963年日本国有鉄道(国鉄)入社。職員局次長などを経て、1987年に分割民営化で発足した東海旅客鉄道(JR東海)の取締役総合企画本部長。 1990年副社長、95年社長、2004年会長。2014年4月から代表権を持つ名誉会長に就任

では日本のリーダーといわれる人たちはどうか。アメリカ人の前に行くと、伏し目がちになる。中国人の前に行くと、「先生、先生」とお互いに言い合っていい気持ちになる。そういうタイプの人が多いんです。 そうではなく、自分に何か持っているものがあれば、それを堂々とぶつけることによって、対等互角に話し合いができ、常日頃のお付き合いができるような人間を作ることが重要で、その中からグローバルリーダーが生まれると思っています。 大学も重要です。東大で行われたパネル(ディスカッション)でも話をしたのですが、世界の人たちから見て、「あの人の講義をぜひ聞きたい」「彼の持っている知識、見識を学びたい」と思うような先生が東大にいれば、学生は世界中から集まってくる。それを、秋入学にしたからグローバル化したというのはおかしい。薄皮一枚の改革で、グローバル化したような気持ちにならないでもらいたいという話をしました。要は先生方が人を引きつける能力を持っているかどうか、ということです。 もうひとつ、グローバルリーダーは積極的に発言をしなければ、というのはおかしい。日本人はしゃべらなさ過ぎると言われます。それに対しインド人はしゃべり過ぎる。日本人をしゃべらせ、インド人をしゃべらないようにすることが会議では大切なことなんだ、とも言われるくらいで、「日本人よ、もっとしゃべれ」という声があります。でも、いい加減なことをしゃべるぐらいなら黙っているほうがいい。これは、我々が小さいときから教えられたことですよ。中身が問題です。 山折:まったく同感ですね。私は、やっぱり沈黙の説得力っていうのがあると思うのです。沈黙には、追い詰められて言葉を失った沈黙もあれば、深い沈黙もあります。美しい沈黙もある。 葛西:本当にそのとおりです。 山折:それは見識があって、人間力があって、初めて可能なことです。言葉さえ出せばなんとかなるという考え方は、戦後の日本の教育界に広がり過ぎている傾向かもしれませんね。 葛西:戦後というよりも、特に最近になってその傾向が強くなっていますね。 山折:リーダーについての考え方が、欧米と日本とでは大きく異なっているようにも思うのです。そのズレを示す1つに奉仕の精神への考え方があるように思います。リーダーは人一倍、他者のために奉仕をしなければならない。その考え方は、たとえばロータリークラブのようなものが欧米社会に根付いていることからもわかります。社会に奉仕をする。問題はその奉仕の仕方です。 どうも多くの日本人の奉仕の精神は、自分の余力を差し出すというものです。お金もまあまあ、生活に響かない程度に献金するというものです。こういう考え方が日本人には行き渡っています。 ところが世界標準の奉仕の精神は、必ずしもそうではない。自分のいちばん大切なものを差し出すという考え方がある。場合によっては、それは命であるかもしれない。こういう奉仕の精神が、どうも日本人には希薄であるように思うのです。奉仕という言葉には、なにかネガティブな印象を持つ人も多い。戦前の滅私奉公につながる、という議論が必ず出てくるわけです。

戦後の「自己犠牲アレルギー」

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山折哲雄(やまおり てつお)●こころを育む総合フォーラム座長 1931年、サンフランシスコ生まれ。岩手県花巻市で育つ。宗教学専攻。東北大学文学部印度哲学科卒業。駒沢大学助教授、東北大学助教授、国立歴史民俗博物館教授、国際日本文化研究センター教授、同所長などを歴任。『こころの作法』『いま、こころを育むとは』など著書多数。

私はここのところが、戦前の価値観と戦後の価値観を分ける非常に重要なところだと思っています。そこにクワを入れないと、どうも国際社会におけるリーダーとしての人間力というものが、なかなか出てこないんじゃないかと思います。そこが1つのポイントだと私は思っているんです。 葛西:確かにそうかもしれません。 山折:自己犠牲に対する拒否反応というのは、僕らのあとの世代、特に団塊の世代以降にはものすごくあると思うのですよ。どうも自己犠牲という言葉を使いたがらない。 たとえば、こういうことがありました。宮沢賢治の作品で、自己犠牲をテーマにしたもののお話としては、『グスコーブドリの伝記』というのがあります。あれは最後の場面でブドリが、冷害や飢饉の状況を救済するために犠牲になって、ある科学プロジェクトに参加するという物語です。つまり、最後はプロジェクトの実現のために死ぬわけです。これは、明らかに自己犠牲がテーマだと思うんですね。そして、それが多くの人々の魂を引きつけてきた。 ところが、若い人の最近の解釈によると、あれは自己犠牲じゃない、人間の利他的行動だというのです。これは生物学研究から導き出された言葉ですが、要するに生理学的な現象だと。 幹部教育とは何か。いざとなったら真っ先に死ぬんだぞ、というところまでいくものです。それは死ぬということまで言わなくてもいいけど、命をかけるぐらいのことをしろ、と言っていいわけです。それが、今では軍隊教育そのものと批判を受けるわけです。この自己犠牲へのアレルギーというものをどう考えるか、するかという課題がありそうです。
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葛西:私は新入社員に対して「ワーク・イズ・ライフ」、すなわち「仕事を人生の目的とせよ」と言っています。JR東海という会社に入ってきた社員は、国家の重要な大動脈を担っている会社に入ってきたわけです。ここで自分の能力を最大限に発揮して、自分の国の経済、インフラにいかに貢献するかということを、自己目的としなければならないわけです。そうしなければ、人生の大部分が「労働」と名付けられた灰色の時間になってしまう、そうなってはいけない、と話をするのです。 要するに働くこと、会社のためになること、お国のためになること、それが自分の人生の達成感なんだと思ってほしい、と。そういうふうに思うと、すべての時間がバラ色になるということです。 山折:きわめて大切なことだと思います。

リーダーになる人間とは

葛西:リーダーになる人間というのは、まさに自己犠牲の精神が必要なのです。これはアメリカ人だってそうですよ。アメリカ人であればアメリカ合衆国の利益のため、かもしれません。あるいは理想のため、かもしれません。そのために命をささげるんだというふうに、やっぱり教えられているのです。 戦後、政治家も含めて国民という言葉を嫌い、市民という言葉を使う人がいます。しかし生活体験の中でいちばん身近なものは、自分であり、自分の家族である。それと同じように、国際社会における行動単位は、国民国家です。国民国家というものに対して、自分はどうかかわっていくのかというところを、まったく教えなくなったということが、山折先生が言われた戦前戦後の差のいちばん顕著な点だと思います。 昔の修身の教科書には、いろいろなエピソードが書いてある。あのエピソードの中には、そういうものが含まれていた。それは全部束ねていくと、家族であり、隣人であり、国家というものに、自分はどのように貢献していくかと、自己犠牲を払っていくかということだったはずです。世界中は今、そうなっていると思うんですけれども、日本はそうではない。 山折:市民、国民という言葉の混乱はよくわかります。イギリスのダイアナ妃が亡くなったときに、それを追悼する動きが全世界的に広がった。あのときに、イギリスの首相はダイアナのことを「The people’s princess」と表現しました。日本のメディアがその「The people’s princess」をどう訳すか。これは面白かった。私が調べたら「市民、国民、人民、人々」バラバラです。ああ、日本人の自己アイデンティティーが定まってないんだなと思いました。 葛西:なるほど。 山折:いろいろな面で揺れている時代です。「イスラム国」の問題についても、日本国家としてどうするのか。あるいは人類としてどうするのか、という発想が必要になると思います。 それからもう1つ、リーダーに必要な資質は、私はかねてから禁欲の精神だと思っています。これは人間が野生化することに対する、歯止めの思想でもあります。そしてリーダーであるなら、さらにいっそう禁欲的でなければなりません。しかし、戦後の自由というのは人間の欲望を解放することだった。これが重要な究極の目標だったので、禁欲を嫌う風潮がまん延するようになりました。
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「教育改革では、アウトプットについて議論するべきではない。アウトプットの話をするから、千差万別の問題意識が出てくる」

葛西:しかし皆が欲望を解放すれば、社会は形成されません。 山折:されません。僕らの学生時代はマックス・ウェーバーの禁欲、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という本を読んで、まさに資本主義の発達プロセスには、禁欲の精神が一方で重要な役割を果たしており、それがあってはじめて成り立っていたのだと学んだものです。 葛西:禁欲と似ている言葉と思うのですが、無私の心というのはいちばん大切なことだと思います。たとえば、国鉄を分割民営しなくてはいけないという議論のときに、我々が何を考えたかといえば、日本の鉄道網の機能を健全に、持続的に維持、発展させるために何が必要かという観点で考えました。それによって自分が余分なお金を手に入れようとか、あるいは出世をしようとか、そんなふうには思わなかった。でも、そう思った人もいるんです。私欲が先に立つということで軽蔑すべき人間ということになります。どうも人間のビヘイビア(行動)を全部損得で計ろうという人がいます。禁欲を嫌う心はそれと同じでしょう。

読み、書き、そろばん、そして考えること

山折:最後に日本人の教育について、まとめていただきましょうか。 葛西:基礎の知識として「読み、書き、そろばん」があります。これを徹底的に鍛えることによって、それ以外のことがすべてできるようになる“土台”ができるということです。教育改革では、アウトプットについて議論するべきではない。アウトプットの話をするから、千差万別の問題意識が出てくるわけです。本当はそうではなく、「読み、書き、そろばん」というベースをいかにつくるかを考えていくべきです。 山折:「読み、書き、そろばん」に加えて「考える」を付け加えたいですね。「読み、書き、そろばん、そして考える」という具合に。 葛西:「考える」ということでは『論語』の中に、「学びて思わざれば則ち罔(くら)し。思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し」と。「学びて思わざるもの」というと、今の官僚を思い出します。「思いて学ばざるもの」というと、全共闘を思い出します。 「学び、思い、行わなくちゃいけない」のです。学ぶときには、「学びてときに之(これ)を習う」という言葉がありますね。反復練習して完全に自分のものにしないと、その知識は役に立たないということです。『論語』を最初に読んだ時には、「こんなつまらないもの」と思いましたけれども、あとで考えてみると、結構いいことを言っておりますよ。 山折:どうやら、結論が出たようであります。ありがとうございました。 葛西:こちらこそ、ありがとうございました。   (撮影:梅谷秀司)