活動レポート

山折哲雄 × 葛西敬之 中編 100年に1度、人間も社会も劣化する―人間は放置をすれば限りなく野生化


山折座長と対談していただく7人目の有識者には、東海旅客鉄道名誉会長の葛西敬之氏を迎えて、前・中・後編に分けて日本の教育のあり方について語っていただきました。今回は中編です。 ※対談(前編): 人間とは何か、日本人とは何か、汝は何ぞや―旧制高校が教えていた3つの大事なこと

有識者対談 第7回葛西敬之さん対談 中編メインイメージ


山折:海陽学園がひとつの参考にしたというイギリスのパブリックスクール。この寮生活というものは、壮絶なものがあります。厳しいタブーがあり、禁欲生活の中に押し込み、しごきにしごくわけです。 その伝統っていうのは、やっぱり中世の修道院から来ており、ありていに言えば、子どもたちを人間扱いしない。まるで動物を扱うように扱うところがある。しかし卒業したら、その翌日からは紳士扱いです。この転換の妙っていうのがすごい。

国鉄分割民営化で考えたこと

葛西:私がこの全寮制の学校について考えた原点は、国鉄の分割民営化と関係があります。国鉄は長期にわたって新卒採用を停止してしまった。高校卒採用は昭和58年度から平成2年度まで、8年間も止めました。8年間止めて、平成3年度から9年目に新入社員が入ってくるということになった時に、国鉄時代とは、まったく違った新人教育をしなくてはいけないと考えました。 その際、2つの仕組みを導入しました。1つは、「インストラクター制度」です。新入社員20人に1人ずつ、若手社員を教官としてあてがい、その20人の面倒をみる形にした。高校を卒業して、まったく異なった環境から飛び込んできた新入社員と寝食を共にしながら、彼らの迷いや悩みを聞き、指導することで、順応させていく。 また、国鉄時代は研修寮の管理が悪く、毎晩毎晩、組合が入ってきて、寮の中で、「俺の組合に入れ」と言って奪い合うわけです。そういうことを絶対させないためにインストラクターをつけた。社員に対し、組合員である前に社員であるというところを、徹底的に教え込めと。 それから、もう1つは「アドバイザリー制度」です。大卒・大学院卒社員が、新入社員6人程度のアドバイザーとして面倒をみる仕組みを作りました。入社後、初期のトレーニングが終わると、新入社員はみんな各々の現場に配属され、バラバラになってしまう。そこで1カ月に1回呼び集め、業務や私生活の悩みごとを聞いたり、適切な指導をしたりするという制度です。食事代は会社が負担するので、ちょっとした食事をしながら、新入社員たちの面倒をみるようになった。何よりも、組合を通じて社員を教育するのではなく、会社が直接教育する方針に切り替えたんです。
有識者対談 第7回葛西敬之さん対談 中編山折先生イメージ

山折哲雄(やまおり てつお)●こころを育む総合フォーラム座長 1931年、サンフランシスコ生まれ。岩手県花巻市で育つ。宗教学専攻。東北大学文学部印度哲学科卒業。駒沢大学助教授、東北大学助教授、国立歴史民俗博物館教授、国際日本文化研究センター教授、同所長などを歴任。『こころの作法』『いま、こころを育むとは』など著書多数

山折:イギリスのパブリックスクールに学ぶまでもなく、本来、先輩が後輩に教えてつなげていくことは日本の文化的伝統です。たとえは違いますが、伊勢の式年遷宮の方式が参考になるかもしれません。社(やしろ)を20年ごとに建て替える。20年ごとに再生をすることで天皇を中心とする祭祀が引き継がれてきました。この20年は、知恵のあるやり方です。どんな組織でも20年たったら、大体、ほころびますから。 葛西:そうですね。20年は、いいと思います。技術継承にもなりますよね。私は伊勢神宮の崇敬者総代のひとりになっています。あの伊勢神宮のご遷宮は、最初に御杣始(みそまはじめ)と言いまして、檜の木を切り倒すところから始まる。切り方も、昔ながらです。20年間隔ですから、たとえば20歳の頃に見習い的にかかわった人が、40歳になったときには中心的な役割を果たすわけです。そして60歳になったら指導者になる。60、40、20の年代が共同でやっていくことに意味があります。 山折:最高の技術と伝統を残していく。これは日本の文化の伝統として、もっとも独特のものだと私は思います。それが20年ごと繰り返されるところに、組織を活性化する再生させる知恵があるのではないかと思っています。国鉄の改革ではこうした再生をやったことになるのかもしれません。 葛西:意識していたわけではありませんが、言われるような性質はあるのかもしれません。昭和24年に公共企業体としての国鉄が誕生し、それから紆余曲折を経て、組織は制度疲労を起こしていた。そこで1回、すべてを遮断して、新しいものに再生させるという仕組みを入れざるをえなかった。でもこれには反対意見が圧倒的に強かったのです。今となっては忘れられていますが。 山折:教育について考えると、問題の根源は「子どもたちが、いつの間にか野生化している」ということに尽きるのではないでしょうか。今度、道徳を新しく教科に組み入れるという考え方の起源になった事件は、滋賀県の大津の凄惨ないじめ事件です。あれで、教育の世界でも何とかしなければならないという声が大きくなった。 人間は放置をすると、限りなく野生化します。これは人類が2足歩行を始めて以来の大問題でした。野獣化、野生化をどう抑え込むか、これこそが人類が何千年、何万年考え続けてきたことです。

野生化を防ぐための4つの文化装置

では人類は、どう対応したか。私の仮説では、4つの文化装置を考え出したのだと思います。 1つは、スポーツです。スポーツは本質的には人間の野生化を食い止めるための遊びの文化装置です。 2番目が軍隊です。よく軍隊は、戦争するためのものと言いますが異常なるもの、危険なるものを限定的なものにし、コントロールする働きがある。 3番目が宗教です。先ほどのイギリスのパブリックスクールでも、日本の江戸時代の藩校にしても宗教的な施設から発展してきている。もちろん宗教は十字軍戦争であるとか、日本の一向一揆のように、戦争の発端ともなるわけですが、軍隊と同じように、人間の野生化をコントロールする性格を持っていた。 そして4つ目が学校です。いちばん大事なのは、学校です。学校は、スポーツ、軍隊的な世界、それから宗教的な世界を包含するような形での大きなシステム、文化装置です。大学から幼稚園までと考えると、そういうことになります。そういう観点から、人間の野生化を食い止めるという問題意識から、教育全体の問題を考える必要があると思います。 いじめ事件や猟奇事件などが発生すると、世論が一時的に盛り上がりますが、のど元過ぎれば忘れる。一時的な手当てに終わってしまう。一向に教育全体の問題を考えるという動きにならないというのが、残念でなりません。
有識者対談 第7回葛西敬之さん対談 中編葛西氏イメージ

葛西敬之(かさい よしゆき)●1940年生まれ。東京大学法学部卒。1963年日本国有鉄道(国鉄)入社。職員局次長などを経て、1987年に分割民営化で発足した東海旅客鉄道(JR東海)の取締役総合企画本部長。 1990年副社長、95年社長、2004年会長。2014年4月から代表権を持つ名誉会長に就任

葛西:そういう面はありますね。僕は、人間というものは1世紀に1回ぐらい劣化すると思っています。野生化と言ってもいいのかもしれません。野生化、あるいは過度に劣化した状態になる。自立的な生命力がおかしくなってしまうような異常性、異様性が出てくるのではないかと思います。人間だけでなく、人間が作った社会も同じです。仕組みが劣化して、もうこれ以上はもたないとなる。日本だけでなく世界の歴史を見ても、1世紀に1回ぐらい、そういう制度疲労、人間劣化が起こっています。 そこで起きるのが戦争です。たとえば、18世紀から19世紀に変わるときは、フランス革命とナポレオン戦争という変動期を経て、18世紀の人が夢にも思わなかったような19世紀の仕組み、Nation State(国民国家)が生まれました。 この19世紀の仕組みが20世紀の仕組みに変わる移行期間は、第1次世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件から、日本の敗戦まで。あの期間に世界中は、ヨーロッパの時代からガラッと変わりました。 通常、世紀の転換が起こるときというのは、人間は劣化する。19世紀末はデカダンス―退廃の時代で、大正デモクラシーもそんな時代だった。劣化した人間を鍛え直す、それから過剰な製造能力によって生じたデフレ状態、失業者の増加を、破壊によって是正するという動きが出たわけです。 戦争に勝つための知恵を総動員するので、発明が起こり、新たな市場が用意される。戦争による破壊、人間の鍛え直し、そして新技術の発明というものが、人間の歴史であったことは間違いありません。これが、人間が野生化した場合の処方箋だったと思います。

どうやったら人間を鍛え直せるのか

しかし、技術が飛躍的に進歩した結果として出現した核兵器により、状況は様変わりしました。20世紀はヨーロッパの時代から米ソ冷戦の時代へ移り、核の抑止力によって戦火を交えることはなくなった。その後、ソ連が立ち枯れ状態になって滅び、アメリカは唯一の勝者になった。その間に戦争という破壊を伴っていないために、余剰生産能力を抱えた状況で21世紀に入ってきたわけです。 それを解決するために、アメリカはグローバリゼーションと称し、国境を越えて労働力の安いところに製造能力を移転し、アメリカの資本主義ルールを浸透させつつ、相対的優位を確保しようとした。結果として世界各地が産業化したが、供給過剰のデフレ傾向は却って強まってしまった。また、製造業の移転を補うほど、インターネットなどの技術による雇用や市場は大きくもなかった。 こう考えると、世界は経済的に見ると余剰の時代、人間的に見るとデカダンス―退廃の時代です。かつてであれば戦争による破壊、鍛え直し、発明というパターンが動き出すのですが、それはできない。それが、今だと思います。 では、どうやったら人間を鍛え直せるか。それが今の教育の課題なのだろうと思います。
有識者対談 第7回葛西敬之さん対談 中編イメージ
山折:今のお話は、歴史のとらえ方の問題を提起していると思います。1950~60年代に、フランスの哲学者サルトルと人類学者レヴィ・ストロースが激しい論争をしたことがあります。サルトルは20世紀や21世紀の新しい問題について考えるとき、知識人は積極的に社会参加をして、変革の仕事にかかわらなければならない、と訴えた。歴史を批判的に、弁証法的に超えていこうとしたわけです。これをレヴィ・ストロースが批判した。レヴィ・ストロースは構造主義の立場です。「歴史は少々のことでは変わらない、岩盤のような要素がある」という言い方をした。 彼の議論のポイントは、歴史的な年代には2つあるということです。 1つは、個人主義的な歴史的年代で、せいぜい100年、50年、10年、1年の時間的な区切りで説明できるものです。たとえば、フランス革命がそうだというわけです。そして、もう1つの年代は、そんなものではないと言うのです。考古学的な年代だと。1万年、10万年、100万年の単位で横たわっている歴史ですね。 この年代で流れている人間の歴史は、そう簡単に変わらないし、個人化できない。個別化もできない。つまり芭蕉の言葉でいうと、「不易流行」の、不易の歴史があるということです。サルトルよ、お前さんの言っていることは、せいぜい流行する社会現象を批判しているだけで浅い、と言い返したわけですね。 風土の問題、宗教や人種の問題などは100年、200年で変わるようなものではない。それをサルトル的近代人は、ちょっと軽く考え過ぎていたのではないのかという批判です。思うに、私たちは今、このような反省点に直面しているのではないでしょうか。

人間についての学問が衰退

有識者対談 第7回葛西敬之さん対談 中編葛西氏イメージ2

「人間の作った仕組みというのは、命があるのでいったん老化すれば、決して若返らない。だから人間の作った社会は、1世紀に1回ぐらいは不適合現象を起こす」

葛西:確かにそうですね。私が今、申し上げたのは、サルトル的な世界なのかもしれません。人間の作った仕組みというのは、人間の体と同じように命があるのでいったん老化すれば、決して若返らない。だから人間の作った社会は、1世紀に1回ぐらいは不適合現象を起こす、と。これはサルトル側の議論なのかもしませんね。 宗教や人間学というのは、もっともっと古いギリシャの時代、孔子の時代から今につながっているものです。それは何も変わってない、というのは確かにおっしゃるとおりだと思います。 山折:先ほどおっしゃった、人間は劣化するというお考えは、なるほどと思います。教育改革を考えるうえで、重要だとも思います。今の教育の目標は、科学技術創造立国になっています。それはそれで必要ですが、人文学、あるいはなかなか容易には変わらざるテーマを研究している学問は、どうなるのか。こっちがおろそかにされたために、今、人間についての学問が衰退しているのだろうとも思います。あるいはそれ以外に、もっといろいろな現代の諸条件によって衰弱しているのか。ここを考える必要があります。しかし、これがなかなか国民的な論議の対象になりません。 葛西:確かにそうですね。私は人間学というものは大事だと思います。しかし、人間学というもの、あるいは社会学というものが学問として劣化している点も問題だろうと思います。何が劣化の原因かといえば、これもあくまで私見ですが、たとえば人文科学、あるいは社会科学と言いますよね。科学という言葉を使うことによって、人間そのものを忘れ去ったようなところがあるのではないでしょうか。 私は大学で、文科Ⅰ類というところにいました。そこは主に法学と経済学のどちらかに進む学部だった。その進路を決めるためのオリエンテーションで法学部の先生が言ったのは、「経済学部は『経済は科学だ。それに対し法律は技術。科学は技術よりも上なんだから、志のある者は経済学に来い』と、きっと言うだろう。しかし、そのようなペテンにだまされてはならないと。法律学というのは、帝王の学問だ。科学者は全部、帝王に従うものなんだ。だから君たちは、法学部に来なければならない」ということでした。 面白いことを言うなと思って、法学部へ行きましたが、結果としてみると、これは正しくなかった。法律学が経営者にとって役に立つか、あるいは国の方向を考えるときに役に立つかといえば、必ずしもそうではありません。やっぱり最後に役に立つのは人間学なんです。人間学というのは、人間をまっすぐ見るべきということです。それは宗教、哲学という分野のものだと思います。 最近、全部科学になっていることが問題だと思います。政治学というのは、有権者の投票行動を分析する、統計学の応用みたいになっている。だから私は、今おっしゃった人間学の分野が科学を装おうとしたところに、今の間違いがあると思っています。

制度を変えても問題は解決しない

人文学は人文学であって、人文科学だと言わないほうがいい。科学というのは、所詮は言ってみれば、法則性の世界です。人間とは、大きな意味での法則性はあるかもしれないですが、むしろ法則では捉えにくいものです。その捉えにくい人間をきちんと直視すべきだと思うのです。 教育改革ということでは、私は2006年に発足した、政府の教育再生会議の委員をやっておりました。そこでは、ありとあらゆる意見が出てくる。表面的で、現象的な議論が多く出てくるんです。その議論を、いちいちとりまとめることはおそらく有害です。 山折:有害ですね。それは政策らしき政策の袋を作るだけの話であって、けっして実現しないわけですから。 葛西:教育改革ということで、今、焦点になっていることの1つにグローバル化という議論があります。グローバル化するために、東大は秋入学のセメスター制にすると言った学長がいますが、これはいかがなものかと思います。なにか制度論みたいな話ばかりをする。何か制度を変えると問題が解決されると思っているようなところもあります。教育委員会がダメだ、という議論もずっと続いている。確かに問題は多いですが、教育委員会になにか手を加えたら教育が変わるのかと言ったらそうではない。やっぱり最後は人間です。誰が何をやるかということを、突き詰めていかなくてはいけないのです。誰が何をやるか、に尽きる。そういうことをそれぞれの人が自分で考える習慣を身につけるような教育が必要だとつくづく思います。 冒頭でおっしゃった人間とは何か、日本人とは何か、そして、自分は何かというところを懸命に考える。これが基礎です。私は自分がわかるためにも、日本人がわかるためにも、人間がわかるためにも、自分の実体験をコアとして、そのコアにいろいろなものを身につけていかないといけないのだと思います。大きな雪だるまであっても小さなコアを作ってから転がさなければ、大きくなりません。そこのコアの部分を教育で与えなくてはいけない、ということだと思うんです。   (撮影:梅谷秀司) ※ 後編は次週掲載します