活動レポート

山折哲雄 × 中村桂子 前編 「わかる」と「納得する」には、大きな差がある―「生き物感覚」を失うことの恐ろしさ


山折座長と対談していただく6人目の有識者には、JT生命誌研究館の中村桂子館長を迎えて、前・中・後編に分けてお送りします。 前編では、生命誌研究館設立の経緯、現在の取り組みについて語り合っていただきました。

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「生命誌研究館」とは何をするところか

中村:本日は生命誌研究館にいらしていただいて、ありがとうございます。 山折:前からご案内いただいていましたが、今日初めて参りましてびっくりいたしました。人類発生以来の歴史の中で、生命というものをどう捉えるかという大変な研究をなさっている。なぜ生命誌研究館を始められたのですか。 中村:それをお話しすると長くなります(笑)。今、生命科学は非常に重要な分野になっていますが、始まったのは1970年代。米国がアポロ計画を成功させて、次の目標を「癌との闘い」とし、医学と生物学を合わせた生命科学にしました。 生物学は、人間以外の生き物が対象です。人間を考えることはありませんでした。でも医学となると、人間を研究することになります。「人間を考える」ことになったのです。 同じ年に、江上不二夫先生が、日本で生命科学研究所をお始めになり、私はそこで育ちました。江上先生の生命科学は独自で、植物学、動物学などと分かれていた生物学をDNAを基本において生命とは何かを問うものに変えたのです。ここにも人間が入ります。また当時の公害も関係します。 公害病のひとつ水俣病は、工場が水銀を含んだ廃液を海に流したために起きたものです。海に流せば薄まるから大丈夫だろうと流したら、海には生き物がいたのです。プランクトンから魚へ、魚から人間へと濃縮され、病気になってしまった。海は単なる水ではなく、生き物のいる場だということを意識しなかったのです。技術にも生き物への眼が必要というのも、江上先生の生命科学の大事なところです。 このように米国と日本の生命科学は、人間を考えるようになったという点では一致していますが、誕生の経緯が違います。残念ながら、現在の生命科学は日本でも米国型になっています。
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中村桂子(なかむら けいこ)●JT生命誌研究館 館長。東京都出身。理学博士。東京大学理学部化学科卒。同大学院生物化学修了。三菱化成生命科学研究所人間・自然研究部長、早稲田大学人間科学部教授、大阪大学連携大学院教授などを歴任。1993~2002年3月までJT生命誌研究館副館長を経て2002年4月から同館館長。

私は江上先生のおっしゃる生命科学がすばらしいと思い、研究していたのですが、その基本は機械論です。子育てをするなどの生活の中で、生きものを機械とみて、遺伝子に還元することに疑問が湧きました。 しかし、DNA研究は面白い。DNAから離れずにしかも機械論でない考え方を模索して悩みました。その時、人間の全塩基配列を調べようという「ヒトゲノム計画」がもちあがります。提唱者は米国の癌研究のリーダーです。癌を遺伝子から突き止めようとしたらとても複雑で、人間のDNAを全部調べる必要があると考えたのです。 ゲノムは、その中に歴史との関係を含むので、ここから考えればよいとは思ったのですが、考えを整理できずに悩みました。その中で、友人に相談している時、突然、「生命誌研究館」という言葉を思いつきました。そうしたらそれまでモヤモヤしていたものがぱっと整理できた。言葉ってすごいものですね。 「生命誌という知」を創り出すこととそれを研究するのは、研究所という閉じた場所ではなく研究館という開いた場所という考えです。それでここを1993年に開館しました。
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JT生命誌研究館のホームページ
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山折:なるほど。生命誌研究の「誌」という言葉、これをよく発見されたなと感心しました。人文学などの分野では、「民俗学」に対する「民俗誌」のようなかたちで、この字を使う場合があります。 客観的あるいは分析的な民俗学に対して、民俗誌はわれわれの暮らしの中でその問題を考えるという感覚ですね。うまい合成語をつくり出すなと思いました。
中村:生命誌は、生きものの歴史を知るという意味です。学校で習う歴史の「史」は、戦争などの事件や、信長や秀吉など偉い人の人物伝です。でも「バクテリアも蝶もみんないて初めて生き物の世界ができるのだから、どれもこれもみんな歴史を持っている。その物語を読みたい」と私は思っているので、博物誌や風土誌の「誌」かなと思ったんです。 山折:英語にするときはなんと訳しますか。 中村:バイオヒストリーです。英語のヒストリーには物語という感覚がありますね。日本語の「史」には、それが欠ける気がして。 山折:心理学でも河合隼雄さんなんかは、人間および人間の歴史を知るためには物語が必要だとおっしゃっていた。中村先生も生命の物語を紡ごうとなさっているのですね。 中村:生命の歴史物語は、38億年もあるものですから大変ですけど(笑)。

生命のことは、どこまでわかったのか

山折:われわれには、生命とは授かったものであるとか、よくわからない神秘の世界に包まれたものだという感覚があります。それに対してこの生命誌研究では、一応起源があって、何十何億年という歴史があって、今日がある。時間系列で整理できるという段階に至っていますね。 さらに細胞やDNAという構造的な世界がどんどん明らかにされてきた。そうすると生命起源以来の歴史と構造の状況を重ね合わせることによって、生命はわかるという時代が来たわけですか。
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山折哲雄(やまおり てつお)●こころを育む総合フォーラム座長 1931年、サンフランシスコ生まれ。岩 手県花巻市で育つ。宗教学専攻。東北大学文学部印度哲学科卒業。駒沢大学助教授、東北大学助教授、国立歴史民俗博物館教授、国際日本文化研究センター教授、同所長などを歴任。『こころの作法』『いま、こころを育むとは』など著書多数。

中村:確かに毎日研究していると必ず新しいことがわかります。しかしそのときの「わかる」は、向こう側にもっと大きな「わからない」をつくる「わかる」なんです。本当に科学ってわかればわかるほど、わからないことが増えるんです。 科学者は「これで全部わかったから終わり」というものは面白がらない。「ここからこんな面白いことが考えられる」という展開がいちばん魅力的です。世の中では、科学はすべてを理解し、答えるものと思われていますけれど、そうではない。答えのない、いつもなぜ、なぜ、なぜと問うているのが科学であって、それがなくなったら科学は終わります。生き物研究は、進めば進むほど新しいわからないことが出てくる。だから面白いのです。 山折:おそらく「わかる」ということと、「納得する」ということとは違いますよね。 中村:違います、違います。 山折:納得するというのは、五臓六腑にしみ込むような形で「わかる」ということですよね。知的に「わかる」というのは、関係性が「わかる」、因果が「わかる」というだけの話であって、体全体で納得しているわけではない。
中村:生命誌は、「納得する」ということをとても大事にしていて、私はそれを「生き物感覚」と言っています。納得するためには、自然にいつも接していないと、その感覚が失われてしまう。閉じた環境で試験管とだけ向き合っていると、頭だけの理解になります。それは本当の理解ではない。「納得」と先生がおっしゃったのがまさにそれで、体でわからなければいけない。そのためには、どうしても大きな自然と接していないといけません。 私がいちばん心配しているのは、高層ビルの中でお子さんを育てるような状況になると、その感覚が失われるのではないかということです。今の大人は子供の頃に自然を体感していますから、今、閉じた中にいても、子供の頃の感覚が体にしみついています。でも生まれたときから窓も開かず、風も感じないところで育ったら、この感覚は得られない。それが怖い。 山折:そうですね。たとえば、数学の世界で四次元だ、五次元だといわれても、いくら説明してもらってもわかりませんよね。 中村:わかりません。 山折:だから私は、「じゃあ一度、そういう世界のことを三次元に置き直して説明してくださいよ」と言うんです。そうするとわかるかもしれない。その置き換えができなくなってしまうことが、いろいろな分野でも起きてくるでしょうね。

専門家だからこそ見えるものがある

中村:ただ面白いのが、私のお友達の数学者は十次元の話をするのですが、私は全然わからない。彼は十次元が見えると言うんです。それで、物理学者のお友達は量子が見えるんですよ。私にはDNAが見えます。私には十次元も量子も見えませんが、DNAは見える。 山折:DNAが見えますか? 中村:はい、見えます。専門家って、そういうものではないかと思います。 山折:そうか、専門の問題にかかわるんですね。DNAにしても量子にしても中間子にしても、私はそれを実感できないけれど、ところが顕微鏡かなにかでは客観的に実在が証明されているわけですよ。客観的にしっかり実在が証明されているにもかかわらず実感できない。 絵を見たり、音楽を聴いたりして感動しますね。これは体全体で実感しています。でもその感動の実態が証明できるかといえば、顕微鏡でも望遠鏡でも見ることができないし、証明できない。この矛盾をどう考えたらいいのかということを、いろんな科学者の方に聞いて歩いたことがあります。そうすると、DNAとかクォークというものを実感できるという科学者と、実感できないという科学者がいた。そんなにしっかり調査したわけでもありませんけど、私の感覚では科学者であっても半々ぐらいでした。それは自分の専門ではなかったからかもしれない。

生命誌研究館では「表現」を大切にしている

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「科学的な内容をメディアで伝えるためには表現の世界をもっとひろげなければならない」と語る山折氏

ところで生命誌研究館の展示場では、いろんなカラフルな色が出てきますが、とてもいいですね。単なる「わかる」ではなく、体で納得するためには、非常に効果的なディスプレイだと思います。 中村:ここでは表現を大切にしています。サイエンスコミュニケーションではなく、表現グループというチームがあります。 研究は論文発表で終わりとされますが、これでは楽譜を書いただけ。演奏しなければ多くの人に納得していただけません。音楽のように演奏までする。だから研究館(リサーチホール)と名付けているのです。 コミュニケーションの場合、自分の頭でわかったことだけを整理してしまう。でも表現しようと思うと、まず自分の体全体で納得しないとできないので、そこから新しい発見があるのが面白いです。 山折:新聞を読んでいても、あるいはテレビを見ていても、メディアが科学的な内容を一般の人にちゃんと伝えることができているかというと、まだ十分じゃないと思いますね。それには、今おっしゃった表現の世界をもっと広げなきゃいけない。 中村:そうですね。よく啓蒙、普及とおっしゃいますが、それはやりたくありません。自分が納得したことをどう表現するかを考えて外に出す。芸術家と同じです。   (構成:長山清子、撮影:ヒラオカスタジオ) ※ 中編は次週掲載します