活動レポート

第41回有識者会議 基調講演:本田由紀さん (東京大学大学院教授)

第41回ブレックファスト・ミーティング レジメ 基調講演:本田由紀さん (東京大学大学院教授)  「こころを育む総合フォーラム」の第41回ブレックファスト・ミーティング(有識者会議)が9月29日朝、東京・千代田区の帝国ホテルで開かれた。  ゲストスピーカーは、東京大学大学院教授(教育社会学)の本田由紀さん。教育・仕事・家族という3つの社会領域の関係をめぐる実証的な研究で注目を集めている本田さんは、「日本社会の変容と家族の現状」をテーマにさまざまな具体的資料を紹介しながら持論を展開し、出席した有識者との間では「家族」の現実や今後の課題について白熱した討論が行われた。本田さんの基調講演要旨は以下の通り。
 最近の報道などによると、ひとり暮らしの高齢者は約600万人で、その半数が生活保護水準以下の年金収入しかない。年金が引き下げられ医療や介護の負担が重くなる中、貯蓄もなくギリギリの暮らしを続けてきた高齢者が破産寸前の状況に追い込まれている。一方では3歳の保育園児が万引きで補導されたケースがあって、両親とも働いているのだが借金などで非常に困窮しており、兄や姉に続いて3歳児までが空腹を満たすために万引きするような現実がある。また若者、特に女性の間でも貧困は広がっている。非婚化・晩婚化が進み、女性の非正規雇用がどんどん増えていることにより、働く世代の単身女性は3分の1が年収114万円未満といわれ、非正規の仕事で収入が低い女性は本当に困窮している。特にシングルマザーの場合、その貧困率は世界一高く、懸命に働いても低収入の場合が多い。さらに、父親が小学6年生の長男への過度の期待から刺し殺すなど、家族の中で起きる悲惨な事件も目立つ。  日本社会に対する私の基本的な認識は『社会を結びなおす』(岩波ブックレット)に書いたが、戦後日本社会は高度経済成長期を経てオイルショック後の安定成長期、バブル経済崩壊から現在に至る低成長期と3段階に区分される。特にバブル崩壊後の社会の変容が著しく、それは例えば失業率、非正規雇用の比率、貯蓄非保有(貯金が全くない)世帯比率、生活保護世帯数などにはっきり表れている。家庭の経済的な生活基盤が崩れていく中で未婚率は上昇し、他方では学費が高いにもかかわらず大学・短大への進学が増えた。高度経済成長期に形成され安定成長期に広がりと深まりを遂げていた社会構造は、日本独特のものだと私は考えている。そこでは「教育」と「仕事」と「家族」という3つの異なる社会領域の間に堅牢で太い一方向の矢印(⇒)が成立しており、これがそれぞれの間を結びつけていた。例えば教育⇒仕事の関係では、世界標準とは大きく異なる新卒一括採用という就職のあり方が普通で、正社員になれば長期雇用と年功賃金が保証され、これに基づいて家族をつくることができた。主な稼ぎ手である父親が賃金を持ち帰るのが仕事⇒家族、それを受け取る母親が消費行動のほか子供の教育への費用と意欲の注入をも担うのが家族⇒教育。このように教育・仕事・家族の循環構造が非常に堅牢、強固だったので、政府は公共事業などの産業政策を行っていれば教育、あるいは家族を支えるための支出を抑制することができていた。この「戦後日本型循環モデル」は一見効率的だが、実はこのモデルそのものが、学ぶ意味も、働く意味も、人と愛し合って一緒に暮らすということの意味も掘り崩すような形でさまざまな社会問題をもたらしてきた。さらにこの循環モデルすら成り立たないような状態が現れ始めるのが、90年代以降の低成長期だ。  それ以前の戦後日本型循環モデルにおける日本の家族は、企業の安定雇用と年功賃金、強固な性別役割分業(お父さんは仕事、お母さんは家事)に基づき、政府が講じるはずの公的福祉の代わりに女性が子供や高齢者のケアを担ってきた。また子供は親世代にとって、自分の代理として地位達成を実現してくれる存在だった。「マイホーム主義」が経済や社会を支えたわけだが、実際にはその中で家族間のプライベートな親密性というものは、ずっと十分に形成されないままだった。それが現在どうなっているかというと、家族の成立や維持そのものが不確実化する状況にある。晩婚・非婚化、少子化、あるいは離婚の増加、そして過労死や過労自殺、過労鬱、ホームレスの増加、孤独死など、従来の家族モデルから逸脱するような世帯がデータ上も増えてきている。家族がつくれたとしても、家族間でさまざまな資源(経済、文化、人間関係、時間など)の格差が拡大し、家族が個人にとって負の資源になるような場合もある。「稼ぎ手」になりきれない父親、代理的な地位達成が困難な子世代というように家族内の役割分担が混乱する中で、プライベートな親密さの不全や困難さが一部で一層顕在化している(DV、虐待、殺人など)。しかし福祉政策や教育政策は未整備のままで、過去と同等以上の役割を家族が果たすことを政府側が要求するようになっている。家族は個人にとって最後の「よりどころ」という意味を今も持ち続けており、その意識自体は高まっているのだが、現実とは異なるものとしての家族の理想化、そして苦しい家族が自閉化し孤立し自滅していくような状況がある。  では、家族や日本社会を一体どうしていけばいいのか。かつてのような一方向的な矢印による循環モデルが破綻してしまった現状では、一方向ではなく双方向の矢印で教育と仕事と家族をつないでいくしかない。加えて、苦しい人の現在を支えるセーフティーネットと、それを支えたうえで、もう一度元気を出して社会に貢献する側になってもらうアクティベーションという2枚の布団を重ねて敷かないことには、教育・仕事・家族からこぼれ落ちる人たちを救い上げることはできない。財政的な責任は政府が担い、それぞれの地域や現場で役割を果たすのはNPOなどの団体で構わないというのが、私の考えているこれから必要な社会モデルということだ。  これまで家族が担わされてきた経済的な、あるいは福祉的・社会保障的な諸機能が軽減され、男はこう、女はこうといった性別役割分業からも解放された家族像というのが将来的には望ましい。そのためには当然ながら、家族の外側に社会保障の拡充とケア(育児・介護)の社会化ということが不可欠。また、何か特定の形をした家族をつくらなくとも、基本的に個人でも生きていけるような社会体制をつくらない限り、実際に単身世帯は増えてきているわけだから、この社会はサステイナブル(持続可能)ではないというのが私の見解だ。その基盤があってこそ、家族の本来の役割としての親密な関係性や精神的な充足という、家族の最も中核的な機能を回復することができる。親は子供の教育の費用を払うなどの負担を軽減してもらうことが必要だ。教育に関しては外部の機関がしっかりやってくれて、家の中ではホッとして親子が仲よく楽しく過ごせればどんなによいことか。その際、家族の形態や構成員というのは、単身でも家族とみなすことができるだろうし、ちょっと極端かもしれないが動物とか、もちろん同性同士の婚姻とか、結婚という形をとらなくてもルームシェアなどもある。一緒に暮らす相手は多様であって構わないと思う。かつての日本で多かった養子というのも、少子化の中でまた増えていくかもしれない。決まった形や構造の家族以外は〝逸脱〟とする見方が人々を苦しめ社会の存続を脅かすのであって、誰とどのように暮らすかは多様であってよい。お互いの関係性を十分に築くことができるような家族のあり方を社会全体で探っていくことが必要なのだと私は考えている。