活動レポート

第27回有識者会議 基調講演:青木新門さん(作家)

第27回BM 110107 kokoro 27BM aokishinmon「こころを育む総合フォーラム」の第27回ブレックファスト・ミーティング(有識者会議)が1月7日朝、東京・千代田区の帝国ホテルで開かれた。 この日のゲストは、映画「おくりびと」の原案となった「納棺夫日記」の著者で作家の青木新門さん(73)。「いのちのバトンタッチ」と題し、生と死のつながりをめぐって実際の体験と深い思索に基づいた報告を行い、出席したメンバーとの間で熱い意見が交換された。 青木さんの報告要旨は、以下の通り。
私は富山の葬儀社で納棺の仕事をし、その現場で死にゆく人や死者たちから「命のバトンタッチ」の大切さを学んだ。小さな出版社から『納棺夫日記』という本を出したのは、今から18年前。すると俳優の本木雅弘君から電話があって、「自分はインドのベナレスというところで、たくさん写真を撮ってきた。写真集を出したいが、『納棺夫日記』の中から文章を引用させていただけないか」と。500部しか刷ってないのを、どうして彼が目にしたのか不思議だったが「どうぞどうぞ」と言って電話を切った。すると、しばらくして『HILL HEAVEN』という写真集が送られてきた。彼がベナレスのガンジス川の淵でいろんなポーズをして写真に写っている。 その中に、彼が上半身裸になってガンジス川に足を突っ込み、手のひらに沙羅双樹の葉っぱの上に蝋(ろう)を乗せて、火をつけて川へ流す写真があった。インドの送り火――日本でいえば精霊流しのような風習だ。その写真の横に、私の『納棺夫日記』の文章が引用されていた。私が(腐乱死体の)蛆(うじ)を片付けている時の話で<蛆を掃き集めているうちに1匹1匹の蛆が鮮明に見え始めた。畳を必死で逃げている蛆もいる。柱をよじ登っているやつまでいる。蛆も命なんだ。そう思うと蛆たちが光って見えた>という、そんな文章が載っていた。私は大変驚いた。当時26歳の青年が、しかも少し前までアイドルとしてちやほやされていた男が、「蛆が光って見えた」という文章を選んだ。若いのに大した感性を持った俳優だなと感心した。 それからしばらくたって本屋へ行くと、「ダ・ヴィンチ」という雑誌が目にとまった。表紙は、本木君が『納棺夫日記』を読んでいる写真。買って帰って読むと、インドへ行ってきたこと、ベナレスで大変カルチャーショックを受けたこと、生と死が当たり前のようにつながっている場所であったこと。たまたま一緒だったカメラマンかだれかが『納棺夫日記』を持っていて、それをホテルや飛行機の中で読むうちに、この本をぜひ映画化したいとと思うようになった、というようなことが書いてある。 私は驚いて彼に手紙を出した。目には見えない世界を書いたつもりで、映像化は無理だろう。しかしインドへ行かれたあなたが、そこで生と死が当たり前のようにつながっているという視点でお作りになるのなら、あるいは可能かもしれない。ただし、チャップリンの「ライムライト」のように監督、脚本、音楽、主演と全部1人で作られたらどうか。彼からの返事には「私は一介の俳優で監督や脚本は務まらないが、映画化を許可していただいたと受けとめ、映画関係者に働きかけて映画化を実現したい」とあった。 10年ぐらいたつと映画の製作委員会が出来て最初の脚本が送られてきたが、内容が私のテーマだった「いのちのバトンタッチ」とはしっくりこなかった。直してほしいと申し入れたが受け入れられず、私はタイトルを変えてもらい「青木新門原作」を外してもらうよう求めた。するとある日突然、本木君が富山へやって来た。小料理屋へ連れて行くと、きちっと正座している。芸能界でこんなに礼儀正しい、律儀な誠実な男がいるもものかと感心した。1年ほどたって完成試写会へ行くと、題が「おくりびと」に変わっているし、字幕にも原作者の名前はない。ああ、約束を守ってくれたなと思った。映画は全国公開になると話題を呼んだが、私の名前は表に出ていないので静かなものだった。アカデミー賞を取った時は、本当に驚いたものだ。 私がこだわった「いのちのバトンタッチ」とは、どういうことか。 平成9年に酒鬼薔薇聖斗という少年の事件があった。「君はなぜ人を殺そうなどと思ったのですか」という調査官の質問に対して、A少年は次のように答えている。「僕は家族のことなんか何とも思ってなかったんですが、おばあちゃんだけは大事な人だったんです。そのおばあちゃんが、僕が小学校のとき死んでしまったんです。僕からおばあちゃんを奪い取っていったのは死というものです。だから僕は、死とは何かと思うようになったんです。死とは何かどうしても知りたくなり、最初はカエルやナメクジ、その後は猫を殺してたんですが、町内の猫を何匹殺しても死とは何かわからないので、やはり人間を殺してみなければ本当のことはわからないと思うようになっていったのです」。 もう一つ例を挙げよう。A少年と同じ14歳の九州の少年が書いた、こんな作文がある。「僕はおじいちゃんからいろんなことを教えてもらいました。特に大切なことを教えてもらったのは、亡くなる前の3日間でした。今までテレビなどで人が死ぬと、周りの人がとてもつらそうに泣いているのを見て、何でそこまで悲しいのだろうかと思ってました。しかし、いざ僕のおじいちゃんが亡くなろうとしているそばにいて、僕はとても寂しく悲しく、つらくて涙がとまりませんでした。そのときおじいちゃんは、僕にほんとうの人の命の尊さを教えてくださったような気がします。それに、最後にどうしても忘れられないことがあります。それはおじいちゃんの顔です。それは、おじいちゃんの遺体の笑顔です。とてもおおらかな笑顔でした。いつまでも僕を見守ってくださることを約束しておられるような笑顔でした。おじいちゃん、ありがとうございました。」 同じ14歳でもどうしてこんなに違うのか。それは、この九州の少年の場合は、おじいちゃんが亡くなるその臨終の場にいて五感で死を認識しているということだ。ところがA少年の場合、お母さんの手記によると、おばあちゃんが亡くなったのは夜中だった。少年は起きていた。お母さんが言った言葉は「あなた、明日学校でしょう。留守番して寝ててね。おばあちゃんが悪いっていうから、今から行ってくるから」と言って、連れていっていない。現場を見ていない。すると、この少年は頭のいい子だから頭で考えるようになった。死とは何かということを現場ではなく頭で考える。 現代の知識人でも、死顔というのはろくなものでないと考える人がいる。しかし私が納棺の現場で体験したのは、亡くなる瞬間のお顔は、みんないい顔をしておられることだ。硬直すると冷たくなり固くなって変化するが、死を受け入れた人はいい顔をしている。特にペットの顔とか子供さんの顔などは、ほほ笑んで眠ったような顔をしている。ところが、固くなって硬直したときはまずいと。それで、はっと思ったのだが、ローマの哲人セネカが「人が死を恐れるのは、死そのものを恐れているのではなく、死の付帯物を見て恐れているのだ」というようなことを言っている。私は「全くそのとおりだ」と現場で思うようになっていったわけだ。 命の大切さをいくら訴えていても、大人社会が生にのみ価値を置いて、その生を維持するための経済とかお金とか、そういうものに手段を目的化してしまっている。だから、命に保険をかけて、それを殺すというような事件がたくさん起きてきている。私は、そういう形になった社会は、死の実相を知らないからではないかと思う。死の実相を知った人たちというのは違う。宮沢賢治なんかでも、妹とし子が死ぬ現場にいて「永訣の朝」という作品をつくっている。彼の作品では、動物たちが死ぬ時も全部にっこりほほ笑んで死んでいる。アンデルセンも、死の実相を知っていた人だと思う。『マッチ売りの少女』などは「翌朝、少女はほっぺを真っ赤にして、にっこりほほ笑んで死んでいました。そのことを知っている人は、町中の人はだれも知りませんでした」という文章で終わっている。 死の現場に立ち会わない社会。核家族化とか仕事の広域化とか、あるいは医療機関の高度医療とか、いろんなものが重なり合って、今、死に立ち会う人がいなくなっている。私は本の中で「死は医者が見つめ、死体は納棺師が見つめ、死者は愛する人が見つめ、僧侶は死も死体も死者も見ないでお布施を数えている」というふうなことを書いたが、今は、医者も死を見ていない。先日、講演先でこんな人に会った。「私は医者です。東京の大学病院に30年間勤めておりました。先輩や教授から、1分1秒でも命を延ばすのが医者の使命であると教わり、私もそれを信じて使命感を持ってやってきました。ところがある日、1人の今にも亡くなろうとしているおばあちゃんを担当しました。もうそろそろだなと思って、モニターを見てました。モニターを見てたら、後ろから、3日前から口も聞かなくなっていたおばあちゃんが何か言ったような気がするんで、ちょっと振り向いた。その時に、そのおばあちゃんが『先生、こっち見て』って言った。私ははっと思って、2、3か月考えた末、大学病院を辞めて、今は往診医をしています」。 私が「おくりびと」の原作者であることを断ったのは、死の実相は、生と死の交差する瞬間、すなわち臨終の一瞬にあると思っているからである。ところが映画は、父親の死体は硬直した「土左衛門」だった。それでは「いのちのバトンタッチ」にならないのである。息たえだえでも、にっこりほほえんで「ありがとう」と言って終る場面にしてほしかったのである。