活動レポート

第10回有識者会議 基調講演:市川伸一さん(東京大学大学院教育学研究科教授)、相川良子さん(渋谷区青少年教育コーディネーター)

基調講演 1

「地域教育の意義を問い直す」市川伸一(東京大学大学院教育学研究科教授)

第10回BM(1) P1050654 学校だけでは心の問題、あるいは子供たちが社会でどう生きていくか、どう社会をつくっていくかという問題に対応しきれない。地域とのかかわりという視点から話したい。 なぜ地域教育なのか。1番目の理由は、職業生活や市民生活、文化生活は学校だけではなかなか学べないからだ。地域の人たちとかかわる必要がある。2番目の理由は、多様な他者とのかかわりが地域で得られるからだ。仕事を持つ人、ボランティア活動に携わる人、お母さん以外の主婦、退職された人たちとかかわることもできる。3番目の理由は、子供たちはそうしたかかわりを通じて地域社会に関心を持つようになるからだ。
「社会に生き、社会をつくる人間」としての自覚は、地域教育でのこうした経験で得られていく。私はかつて、人間として社会で自立して力強く生きていく力、それを「人間力」と考えたらどうかと提案したことがある。大人の生活を考えた場合、職業生活、市民生活、文化生活という最大公約数的な3つの柱がある。こうした大人の生活に向かって、子供のころから何をしたらいいのか。 職業生活の基礎としては、世の中にどんな仕事があり、そこにどんなやりがいがあり、その仕事に就くためにどんな勉強をしたらいいかを学ぶ。市民生活の基礎では、子供なりに社会に参加し、地域活動にかかわり社会の出来事について知る。文化生活の基礎は、学校での音楽や体育などの教科の学習で文化の基礎的な素養を身につけることだろう。 このようなモデルで考えてみると、学校で扱ってこなかったテーマが浮かんでくる。例えば、世の中にはどんな犯罪や非行があるのか、中学生もターゲットにする悪徳勧誘はどんな手口でつけ込んでくるのか、そうした犯罪から身を守るにはどうしたらいいのか、といったことだ。こうしたテーマをとりあげるにも、すべてを学校でというのは無理であり、地域の力を借りなくてはならない。 自治体や市民団体、大学、企業などが、地域でさまざまな教育プログラムを提供している。自由に参加でき、費用も安いものが多い。しかし、関係者に聞くと、意欲の高い子は来るが、そうでない子はあまり来てくれないと言う。こうしたプログラムが地域にあることを知らない子も多い。 内閣府の「人間力戦略研究会」の報告書に、ぜひ入れてほしいと言ったものがある。「授業外学習ポイント制度」で、地域で行う超・選択学習と考えている。自治体、市民団体、NPO、民間企業、大学あるいは図書館とか美術館とか博物館といった地域の施設が提供するプログラムを、学校を通じて児童生徒に紹介する。学校を通じて配付するには、教育委員会との連携が不可欠だ。土曜スクールなどでの教科の学習の補充や発展、さらに人間力にかかわる文化・スポーツ、市民生活、職業理解など広範囲なものを考えている。 1例が、地域の学びの推進機構が運営する「学びのポイントラリー」で、東京の幾つかの地域で試験的に実施されている。一種のスタンプラリーのような感覚で、子供たちに地域の教育プログラムや社会的な活動への参加を促そうというものだ。小学5年生以上高校3年までだが、地域によっては小学1年から参加できる。40ポイントとるごとに学習履歴の認定証を発行する。高校入試などでの活動履歴として活用してほしい。 地域での社会的な活動、教育プログラムをぜひ活性化させたい。地域の大人たちの姿を見ながら心を育んでいく仕組みがうまく機能すれば、と願っている。

基調講演 2

「地域で育つ子ども・若者」相川 良子(渋谷区青少年教育コーディネーター)

第10回BM(2) P1050662 なぜ子供たちが地域で育つことが大事なのか。 中学校の教員だった私は、最後に渋谷区の原宿中学校で校長をした。子どもの数は少なくなっていたが、1クラス最低でも25人いないと学校ではないと強く言って、PTAと先生方とで子供集めに走ったことがある。クラスで班をつくった場合、男女各2班で6人ずつになるが、そこで人間関係がうまくいかなくなったときに班を変えられるからだ。リセットしたくても、リセットできない状況は子供にはつらい。学校というのは、集団の縛り、同世代の縛りが強くある場所だが、確執が1回生じるとなかなか修復できない場所でもある。いじめはそういう中から発生していく。 多様化の時代に、子供たちが一人の人間として育つ場所を考えたときに、それは地域の中にしかないと考えてきた。学校がさまざまな限界を抱えたとき、地域の多様な力を持ち込むことで学校は再び元気になるのではないか。 退職した翌年、「ファンイン」という場所をつくり、学びと体験、心の3つのネットワークをつくった。先生たちが一番困っていることに具体的にかかわってみようと。 地域では、何かをしたいと考えている大人はたくさんいる。若者も、学校に行ったり退学したり、あるいはフリーターになったりとさまざまな形で地域社会に生きている。子供はといえば、行き場があまりない状態にある。この3つの層を組み合わせることで、子供や若者たちの居場所をつくってみようという発想だった。 ファンインは8年目を迎えた現在、11か所で活動している。最近は企業の社会貢献という形で社員の方たちが参加してくれ、パソコンやプリンターなどの機材も提供されるようになって活動に広がりが出てきた。NPOもかかわっている。 地域社会の多彩な力をこの場所に持ってきたわけだが、ここで多くの子どもたち、若者たちが育ってきた。不登校もフリーターも、「ニート」と呼ばれる若者たちも来る。さまざまな形でやって来た若者たちだが、やはり巣立ちを促さなければいけない。居場所からの巣立ちをどう促していくかが大きな課題になっている。 今までの仲間とのかかわりだけでなく、異世代や異文化とのかかわりへとつなげたい。自分が社会に役に立つという体験をたくさんさせたい。働くことの意味を考えていきたい。今まではボランティアだが、その活動を仕事に結びつけたい。社会への巣立ちを真剣に考えているところだ。 ファインインは、子供たちが、若者たちが立ち寄る場であり、通り過ぎる場であり、多様な人とかかわる場であり、日常に絡まる場である。社会につながる場であるわけだが、そこには仲間がいて受け入れられる。居心地が良いので、ずっと居つく。 しかし、その中で自分の役割を認識し、自分は役に立つのだという感覚を持ち、自己肯定感を持って生きていく力をもっと身につけなければ、社会ではやっていけない。 最後に、地域教育の現状について社会参加と放課後問題に触れて終わりにしたい。 これまでの活動にかかわってみて思うのは、若者たちの「育つ感覚」というものは、さまざまな人々とのかかわりの中で、とりわけ子供とのかかわりの中で「お兄ちゃん、お姉ちゃん」と言われ、有用感を持ったときに生まれるということだ。社会の中で役に立ったという感覚をもっと彼らに与えてやれないものか、と考えている。 東京都は高校生に対してボランティアの社会奉仕活動を、義務化とまでは言わないが、徐々に入れていくという話を聞いた。先日、都立第一商業に行って、居場所で子供たちと遊ばないかと呼びかけたところ、28人の希望者があった。こうして集まってきた高校生たちが、社会で役割を担っていく、生きていくという実感をもっと強く持てるようにしてあげたい。大人として取り組んでいかねばならないな、と感じている。

自由討議

「地域という言葉だが、いまの子は、例えば職場の保育所で育つとか、いろいろな育ち方をする。学校も選択性になると、子供たちは地理的空間を越えて移動する。その場合、コミュニティー、地域教育というものをどうとらえるべきなのか。 また、人間力とか生きる力が学校教育に欠けていると指摘されたが、それを総合学習などで教えると学校教育は膨れ上がり、整理がつかなくなりはしないか。地域教育やコミュニティー教育は、学校教育を補完するものではなく、むしろ対等に位置するシステムを考えたほうが現実的ではないか」 市川「地域という言葉は確かに意味合いが違ってきている。大人たちの地域活動も、お互いの家が近くなくても環境や教育の問題に関心のある人たちが集まったりする。子供たちも、自分の興味に基づいて大人の活動に参加することが増えてくるのではないか。 確かに学校教育はいろいろ求められている。ある会合で、地域は、学校でできないことを補完するというニュアンスで話したら、気を悪くした人がいた。その人が言うには、地域には独自の役割があり、むしろ学校教育とセットになって子供の学習環境をつくっていく、というふうに見てほしいと。そのとおりで、学校と地域は、どちらが主でどちらが従かではなく、全体的にとらえていく必要があるのではないか」 相川「いまの子たちは、企業やNPOなどの団体も含まれる大きな地域社会の中で暮らしている。渋谷区では、学区域があったころは1つの中学校に2,3校の小学校から来ていたが、選択制となった現在では、20校ぐらいの小学校から来る。中学校を取り巻く地域も相当広くなってきた。 学校での教育と地域社会での教育との兼ね合いだが、同心円の核に学校での教科教育があり、その外側に総合的学習や道徳、特別活動などの分野、さらにその外側に課外活動、部活動やクラブ活動があり、一番外側に地域社会のさまざまな活動がある。コアの教科教育は先生方に担当していただくが、その外側に関しては連携がしやすい。同心円の一番外側にある地域社会での体験を中心とした教育活動、多才な子らへの補充・発展教育は地域が担える。地域教育は学校教育と並ぶ、学校外の教育活動と位置づけたほうがいい。学校と価値観を共有しながら校外で意図的な教育活動ができるのではないか」 「東京など大都市中心の話になったが、地方でも同じ傾向にあるのだろうか」 相川「新潟県で山村留学を受け入れる方たちは、『いや、渋谷と同じですよ』と言う。過疎地なので子供は車で学校に行き、学校からそのまま車で送られて家に帰る。外で遊ばなくなる、という話だった。日本の場合、文部科学省の地域子ども教室が軌道に乗ってきたが、まだ地域の人々の力で動いている状態だ。行政が費用を出して放課後を担保することがない。今後、放課後改革が必要だろうと思う」 「日本人は大人も子供も大変忙しく、自分を見失っているのではないか。受け身になって生かされているという印象を受けるが」 相川「先日、中学校のお二人の校長先生から同じ話をうかがった。『最近の中学生は本当に幼い。自分たちで物事を決められない』と言う。小規模校の同じクラスで育ってきて、中学は2クラス、3クラスしかない。集団形成ができない。悩んで、仲間をつくって、卒業式で涙を流して、巣立っていくという姿が消えてしまった」 山折座長「まず、メンバーのみなさんに感想をお聞きし、お二人にはその後でお答えをいただく手順にしたい」 「人間力についての話があったが、人間力をつくるとは、自由に考える力、あるいは十分な知識を身につけることだろう。自分で決定して行動する。学び、思い、行うのバランスをうまくとるということだ。いまの子供たちは、原点に戻ることが大切ではないか。原点とは読み書きそろばんであり、徹底的に教えてあげることが必要ではないか。学校はその機能を弱体化させてしまい、子供たちは基礎知識を補うために塾で拘束されている。人と語る時間も、本を読んで空想する時間もなくなるという悪循環に陥っている。 確かに都市では居る場所がないのは事実だと思うが、何となく満たされない、どこかに行ってみようか、では望ましい集まり方でないのではないか。これをやりたいから、こういう人たちと集まるという形が望ましい」 「この会でも、道徳という言葉をどう扱うかが問題になるが、学力、社会力、生命力、体力、自己抑制力などは人間力に入ると思うが、道徳はどう位置づけられるのか。学校は学校、家庭は家庭、地域は地域という分け方でいくと、その間の関係がどうしても落ちてしまう。家族、親あるいは兄弟、場合によってはおじいちゃん、おばあちゃんが地域での営みにおいてどう位置づけられるか。例えば、父親の職場を子供に見せるのは大きな意味があるが、これはどういう位置づけになるのか。本物の自然を見せてあげたいが、この中でできないものだろうか」 「相川さんのお話でショックだったのは、新潟の山村では学校と家庭の間を通学バスというパイプが走っていて、子供たちは家でテレビとインターネットで社会と接触しているという。全国がこの状態であるのなら、日本は崩壊してしまう感じがする。 もう一つ、先日、駒大苫小牧高校で、卒業式を終えた野球部員が、居酒屋で酒を飲み、たばこを吸って補導された。それをきっかけに、現役の部員が選抜高校野球に出られなくなった。なぜ、この大人たちの暴走を苫小牧という地域社会がとめられなかったのか。この決定はおかしい、チームを甲子園に出そうじゃないかと発言した方が市民にいるかというと、少なくとも新聞を見る限りはいない。この地域力のなさは、今話された地域の問題とどこかでつながっているのではないか。」 山折座長「この辺で、お二人にお答えなりをお願いしたい」 市川「私自身は読み書きそろばんを中心にとは思わないが、まず原点に戻るということでは、原則的にはそのとおりだと思う。私たちが子供のころは、宿題をきちっとやれば、塾に行かなくともという感じだった。いまは学校の週5日制もかなり定着し、学校と地域のバランスを改めて考え直そうという時代になっている。コミュニケーション力をつけさせることは学校にもやってほしい。それぞれの持ち場というか、これをしっかりやることで改めて子供が選択していく自由も生まれるという考えには賛成だ。 いまの子はお小遣いでビデオソフトもテレビゲームも借りられる。自分の部屋で友達と携帯電話で話している限り、12時、1時になってもとがめられない。こういう生活では、落ちついて勉強したり、本を読んだりすることに取り組むチャンスが失われてしまう。もっとやりがいのあることに入っていけるよう、きっかけをつくってあげてもいい。 地方の状況だが、先日、和歌山に行った。一つの市区町村が2、30キロの大きさで、その中に点々と子供たちがいる。子供たちに地域の活動に参加してほしいと思ったら、バスが家々を回らなくてはならない。これが東京なら、子供たち同士で誘い合い、歩いて、あるいはバスですぐに行ける。過疎地では、子供たちが出ていけず、二重に大変だ。 道徳という言葉は、私自身もちょっと苦手なところがある。この言葉を聞いたとたんに引いてしまう子、保護者、先生がいる。中央教育審議会でも申し上げたが、無理に道徳という言葉を使い続けなくとも、市民性とか、シチズンシップ・エデュケーションのような言葉で、市民としての倫理観やルール、マナーを身につけるという言い方をするとあまり抵抗がない。社会で生きていくために、どんなことを守らなくてはいけないか、という感覚を身につける。地域社会で大人とかかわる中で学んでいくことが大切ではないか。 親は、普段は家庭にいる姿しか見られないわけだが、外では仕事をしたり、市民として活動したりしている。日本の親はそうした姿を子供にあまり見せないが、それをお互いに見せ合える家庭づくりも大事だと改めて考えている」 相川「自然体験や社会体験、生活体験が、子供の倫理観を育てるという報告書があった。子供たちが自然に親しむ体験活動は減ったが、家でのお手伝いは増えているとの調査結果がある。家族関係がどんなによかろうと、外へ出て友達をつくり、お年寄りたちと仲よくなってほしい。無目的に集まるのはどうかというお話があったが、今の子は家族以外の人とつき合う機会を失ってしまっている。 小学高学年から中学生世代の子が、大人たちの手になるプログラムにすんなり乗ってくるとは思えない。子供たちが集まり、自分たちがやりたいことを自分たちで決めていくことが地域の活動の原点なのだろうと思っている」 山折座長「それでは、また委員のみなさんからご意見を伺いたい」 「かつて昭和50年代の終わりの頃、全国の中学で校内暴力の嵐が吹きあれた時期があったが、そのときは出席停止の制度の運用や学校内で教員の一致協力を促す対策など、硬軟両様の施策を熟考のうえ迅速に措置して、さっと沈静化することができた。しかし、今日のように社会自体が抱えている問題に対しての妙案はなく、十分対応できない。 平成15年の夏、任期の最後のころ、子供たちのかかえる問題状況を見て考えついたのが、放課後の子供たちの居場所をつくることだった。家に帰っても保護者がいないような子のために学校などに居場所をつくり、親たちやOBが順繰りにそこに来て、子供たちの安全を見ながら好きなことをやらせる。その後、東京・葛飾区の学校の居場所を見学させてもらったが、ある子は一輪車に夢中に、ある子はそろばんを懸命に、ある子は歌をつくりとみんな生き生きとしていた。見守る側の大人たちはそれまで家で自分の子しか見ていなかったが、活動に携わることで子供たちに多彩な個性があることがわかったという」 「家庭や学校、地域で、それぞれが子供たちにきちんとした質の教育をしなければ、問題を解決できない。丁寧に教育しなければいけないが、多くを要求しないほうがいい。評価をするのに量が基準だったことが問題で、今後は質が問われるのではないか。読み書きそろばんでも何でもいいが、何が本質かを定め、それに集中してやることが大事ではないか。やり過ぎてきたところに問題がある」 「賛成だ。重要なのは教員の資質だろう。私自身は戦後、1クラス70人という学校で教わったが、先生方の教えてやろうという情熱がとても強かった。先生の学力も、教えてくれる中身においても圧倒的に生徒を凌駕していた。小中等教育において、先生はそうあってほしいと思う。 今は、国立の、旧帝大の理工学部で大学院を出た人たちは、理数系の教員免許を取るのが非常に難しい。あれもこれもと求めることによって教員の質が落ちている。そうした免許のない人は塾で教えるのだが、塾で習ったほうがインパクトは強いので、子供たちは塾には勉強に行くつもりで臨み、学校では羽を休めるということになる。 学校で必要十分なことを教えてもらえれば、そういうことはなくなるのではないか。そのために先生の免許制度をどう持っていくか。イギリスでは、インディペンデント・スクールは免許なしでも、校長先生が『この人はいい』と言えば、教えられるようになっているらしい。日本では、教える能力が十二分にある人でも、免許を取ってもらうのに1年半もかかってしまう。改善点の1つではないか」 「子供たちの居場所の話と関係するが、何かあったときの責任の問題はどうなるのか。学校から早く子供を帰すのも、その問題と根底ではつながっている。さらに言えば、こうした社会貢献のクオリティーを維持する責任はだれが負うのか」 市川「文科省も地域子ども教室という形で援助してくれているが、安全管理はしっかりと義務づけられている。質の向上については、専門家がやっているわけではないので、子供の引きつけ方が下手だったり、プログラムに魅力がなかったりすることもある。こうすればもっと良くなる、とアドバイスできる機能が教育委員会にもあればと思う」 「子供たちは最先端技術に強い興味がある。経験談を申し上げると、企業にリサイクルされる寸前のコンピューターを提供してもらい、それを壊したうえで、親子がリサイクルの観点から部品を分別するという授業をしたことがある。大変な盛況だった。プログラムのつくり方一つではないか」 「人間力が大事なのはわかるが、私は、人間の力は人間同士の関係の中からしか生まれてこない、それも深くつき合ったときについてくると考えている。私の体験では、小中学校時代は学校の友人と放課後もつき合った。家では友人でも全く違う顔が見える。今会っても、その時代のことを話し合う友人関係がある。それが、家に帰ったら学校の友人とは別の大勢の人たちとつき合うという。私だったら、できるかどうか。 私は、自然とのつき合いも人間とのつき合いと同様、日常的になければいけないと思っている。私は農業高校が大好きで、行くとほっとする。自然は、コンピューターよりも複雑だ。人間力も自然も、おそらく今の人たちは、複雑さというものを避けているから起きているのではないのか。人間という複雑なものに向き合い、何とかしていなくてはいけないと思うのに、そうしたことを社会からどんどん消していったことがいろいろな問題の原因になっているのではないか」 「子供のころは、先生を通して社会を見る、先生に大人のモデルというか人間力のモデルを見ていた。学問を教えてもらうだけでなく、先生を大人として先輩として、尊敬していた気がする。そして本を読みスポーツをして、社会性や人間心理、文化の薫りを学んだ。 だが、いまはどうか。うちの息子に言わせると、教師は敵だと言う。そこまでいかなくても、先生が生徒から尊敬されない、見本にされなくなったのかと思った。 責任と権限の問題も密接に絡んでいる。責任と権限が違うのは日本だけではないか。外国では、責任をとる人は必ず全権限を持っている。日本では、問題が起きたときは学校が悪い、先生が悪いとなる。先生たちはさらに萎縮し、学校には入れないよう柵をし、楽しい遊具があっても使わせないようにしてしまう。 先生方に伸び伸びしてもらうには、PTAも社会も文句を言うな、先生に任せろというところがないといけないのではないか。先生の復権をはかることも大事ではないか」 「人間に備わっている力はそんなに絶望したものではないと思う。大部分の日本人は健全に育っており、社会人として育っているのもいま一つの事実ではないか。家庭や社会、学校で子を育てることも一つの方向かもしれないが、教育というのはやはり補助的な手段だと考えている」 市川「子供時代は、よく遊び、よく学べと。だが、大人になると社会でどんな役割を担うのか、どんな責任を持つのか、自分の夢がどう結びつくのかを考える経験は、少し弱かったのではないか。大人たちと接する機会がもう少しあってもよかった。ただ、それをどう教育に持ち込むか。誤解を恐れずに言えば、学校教育は基礎基本の部分に焦点を当て、多様化のほうは地域で考えていくべきではないか」 相川「確かにほとんどの子は健全に育っているのだろう。だが、確実に、積極的な子と消極的な子との差は開いている。ニートはともかく、フリーターは消極的な子に多い。彼らは、とりあえず、どうにかなるからと言う。とりあえず、とりあえずが続いていく。 今の親の世代が次の世代を指導し切れていない、育て切れないでいる。2世代にわたる問題を抱えこんだ日本の状況に、どこから切り込んでいくのか。この消極的な子供たちに仕事をさせたいと思う。年金と医療、福祉、子育ては全部、みんなで頑張るんだという気持ちになってほしい。 居場所のプログラムの問題だが、すばらしいプログラムをつくれば、子供は確実についてくる。では、だれがプログラムをつくるのか。それはやはり、企業と大学だろう。地域の人は子供たちの面倒を見ることはできても、プログラムづくりはできない」 山折座長「ありがとうございました。実は学校におけるいじめが頻発したころの話だが、こういう事実がある。ある帰国子女が日本の中学校に戻ってきて、たちまちいじめに遭う。毎日のように学校の先生に訴えたにもかかわらず、解決が図られなかった。 あるとき、その子供が職員室に入っていって、担任の教師の前にある電話を取り上げ、警察に電話した。今、私はいじめに遭っています。助けてください。直ちに警官がやってきて、取り調べをした。その学校では以後、いじめの現象がぴたりとやんだという。 これは例外的な現象かもしれない。そういう事実をどういうふうに受け取るかということは、さまざま考えられるが、その話を聞いたときに、やっぱり子供というのは、ある段階で家庭の子供から法の子供、法律が行き渡っている社会へ身を乗り出していく、法の子供へと変化する、その時期を経験するのだ。そのことを非常にリアルに教えてくれた事件ではないかと思う。 問題は、そういう場合に警察に電話するという行為を受け入れる文化、受け入れない文化があるような気がする。アメリカの社会というのは、大体これを受け入れる社会だと思う。日本の社会は、学校であれ、家庭であれ、地域社会であれ、すぐ警察権力というものを導入することに異常な抵抗感を感ずる社会だ。 その抵抗感の底にあるのは、どうもある種の道徳感情といったようなものだと私は思う。だから、欧米社会における道徳感情というものと、日本の社会における道徳感情の違いということが、どうも重要な要因を果たしているのではないかという気がしている。 しかし、やっぱりそろそろ子供のある成長段階で、子供というのは法の支配を受けるんだということを、これをやっぱり積極的に、道徳教育ということよりも、そういう市民としての義務と責任の問題にかかわる問題だという教育をすべきときに来ているような気がする。ここのところは日本の学校教育においては、非常に弱かったところではないか。 道徳というものを今後どう考えていったらいいのか。日本の社会に向かって、心を育む環境をつくるために、そういう道徳感情をどういうふうに考えていくのかを実践的に提言していく場合にも、一つ重要な問題ではないのかなと感じている」