活動レポート

第5回有識者会議 基調報告:遠山敦子さん(元文科相、松下教育研究財団理事長)、金澤一郎さん(国立精神・神経センター総長)

基調報告 1

「育むべきこころとは」遠山 敦子(元文科相)

meeting05 フォーラムでは過去4回にわたり、育むべき心とは何かという角度でご議論いただいてきたが、この辺で一度、取りまとめをさせていただきたい。 今日は2点についてお話したい。1点は、これまでのご議論を集約した結果である。資料1は、過去4回の会合の議事録から3つの角度にわけて要点をまとめている。1番目は近年の社会情勢の変化とその特徴、2番目はそこから生じる心の問題、3番目は解決に向けての提案である。この資料の作成にあたっては、東大教育学部の市川教授にご協力をお願いした。ご多忙ななか、ご専門の見地から的確におまとめいただいたと思う。 この資料では、育むべきこころを考える際の領域として、個人にかかわる問題、家庭にかかわる問題、学校、社会、そして一般という分け方がなされている。 まず、個人の領域で見ると、メディアに触れる時間が増え、体を使う時間が減少する一方、情報ツールの多様化でバーチャル体験が増加している。直接体験からではなく、間接的な情報を受け身で取り入れるというIT社会を反映した変化だ。 また、自分の生活の手段を自分で獲得するという基本的認識の欠如、あるいは命を大切にしない、自分の欲望をコントロールできないといったことは、そうした部分の状況の変化に伴う変化だろうか。自らの欲望にそわない、気に入らないことが起きたときにすぐキレてしまう、無差別に人を殺すというようなことにもつながっていく。 次に家庭の領域では、幼児期に、親の応答のまずさから対話を通じて育まれるべき心がなかなか育まれず、親から受容されている実感をもてないという問題がある。食事を一緒にとらなくなったことも心の問題を生じさせている。食卓に家族が集まり、心を許し、会話をする。食卓で、信頼感とか相手の心の動きを想像する力などが養われるからだ。 学校の領域では、2つの視点からの意見があった。1つは、学校が知識伝達に偏っていて、体験とか表現であるとか、暗黙知とか倫理をきちんと身につけさせていないのではないか。もう一つは、学校への依存が大き過ぎる、学校はもっと基本的な知識、技術をしっかり身につけさせる場ではないかという議論だった。 これらは対立する意見とは考えていない。確かに子供の世界にとって学校が非常に大きな比重を占めているが、そうした中で学校がやるべきことは、知識偏重ではなくて、必要な基礎・基本をしっかりと身につけさせ、その上で自ら考える力を身につけさせることであって、それをさらに確実なものにするために、体験であるとか、表現であるとか、暗黙知の世界も身につけさせる、そういったことがうまくバランスをとって身につけられればいいのではないか。 次に、社会の面だが、かつてと価値観が大きく変化している。伝統的な価値観でいえば、規律や思いやり、勤勉性が失われ、それにかわって個性尊重が強調される時代になった。自己中心であることがとがめられないというか、自らを伸ばす、個性を伸ばすことが重んじられ、社会のあり方にも変化をもたらしている。表の詳細にわたる説明は省略する。 さて、なぜ今、心について論じるのか。山折さんのお話では、日本人、あるいは人類は1,000年もの間、心の問題について語り、取り組んできた。しかし、この問題は、何か作用を起こして、それで解決、それで終わりということではなくて、変化する時代に応じ、人はどのように生きるべきかという永遠の課題につながるのではないのか。 永遠の課題については、勿論それぞれの人の生き方、考え方に任されることが基本だが、今とくに考えてみるべき必要があると思う。戦後60年、日本の社会は大きく変化した。分析すると、5つのキーワードにまとめることができる。 1つ目は、急激な都市化だ。60年の間に急速な都市化が起きたことで、コミュニティーが崩壊してしまい、自然との触れ合も極端に欠如し、コミュニティも崩壊してしまった。 2つ目は、核家族化。伝統的価値が祖父母から自然に伝承される機能が失われてしまった。母親たちが育児において孤立し、悩みを自分だけで取り込んで解決のめどがつかない。そうした焦りと悩み、不安が過保護や放任につながり、子どもに影響してきている面が無視できない。 3つ目は、物中心の消費社会化だ。物質中心で、欲求が満たされないときの不満が個人の自制力をなくさせている。利便性が人と人との関係を希薄化している。 4つ目が、急激な豊かさにともなう目標の喪失。80年代に日本は幸いにも経済的な豊かさを達成できたが、そのときの自信過剰とおごりとが、もう真似るものはないとして、社会全体が目標を喪失したのではないか。個人にとっても目標の喪失が指摘できる。目標がない、生きがいがない、学んだり働いたりすることへの意欲がない、という症状が見られ始めたのは、日本の歴史でも初めてではないか。なぜ勉強するのか、なぜ仕事をしなくてはいけないのか、我々の世代には考えられない疑問が大きく出されてきて、親や学校の先生たちは答えられない状況だときく。 5つ目が、高度情報化社会だ。プラス面ははかり知れないが、IT機器への孤立した対峙で、内にこもってしまう、人や社会への関心が薄くなる、あるいは、匿名性を利用した新しい犯罪が、コントロールしにくい形で出てきている。 日本の歴史においても、この60年間の変化というのはあまりに急速で、強い勢いであり、十分な対応ができなかったのではないか。これからの21世紀における進歩も読み切れず、私どもを含めた凡庸な人間にとっては、なかなか難しい時代でもあるが、かつての生き方に単純には後戻りはできない。 このまま推移していくとどうなるのか。見守るだけでは十分ではないのではないか。それが、このフォーラムを立ち上げた理由でもある。今日の子どもをめぐる状況は、実は大人自身の問題でもある。育むべき心を考えるにも、社会の大人たちが、この問題をどう危機感を持って対応していくかという角度が必要だ。 その視点から、育むべき心とは、ということを一応考えてみた。これまでのご議論をベースにしながら整理してみたのが資料3-2である。育むべき心の大きな目標としては、一人一人が自立して生きる人間力を備えて、他者との協生を図って、同時に公共への参加の心情を持つということになると思う。 具体的な目標としては、1つは、自己にかかわること、個人個人がどのような心を備えてほしいかということだが、善悪をわきまえて正しく行動することができるという基本的なモラルを持つべきだということ。山折さんの表現では、人類の黄金律ということになるが、うそをつかない、殺さない、盗まないといった最低限の規範を根底に身につける必要があるのではないか。近年、家庭でも学校でも社会でも、何々してはならないと言うべきではない、という議論が先立ち、なかなか明示的にそのことが表現されないのは問題ではないか。工夫をしながら、この3つについては何らか、一番の基本として身につける必要があると私は考える。 2つには、生きとし生けるもの、自然とか芸術、日本人がずっと大切にしてきたもの、こうしたよいもの、美しいものに感動するこころを持ち、敬う心を持つこと。学ぶこと、働くことの喜びと大切さも、以前は自然に身についたわけだが、こういう喜びと大切さを知ることによって、生きがいを感じることができる。今は、何もしないことの自由を楽しむというのが広がりつつあるが、人としては、生きる目標を探していくということにおいて、はじめて生きることの手ごたえがあるのではないか。 第2には、人と人のかかわりに関すること、第3には、社会とのかかわりに関すること、という角度で、とりまとめてみた。これらは、今後の議論の一里塚にしたい。秋以降の領域別の議論の前提においていただけたら幸いである。

基調報告 2

「子どものこころを上手に育む3か条」金澤 一郎(国立精神・神経センター総長)

いま問題を抱えているのは子どもたちだけとは限らない。他人に責任を押しつける親、責任をとりたくなくて物事を決めない若者、さめていて熱中することのない大学生、本も他人の心も読もうとしない高校生、群れて騒ぐが友達はゲームや携帯電話という中学生。すべてがこうだと言うつもりはないが、これではぐあいが悪かろう。 基本的には中学生、小学生になるあたりまでに、どういう過ごし方をしてきたのかが大事なのだということを申し上げたい。それには3つのポイントがある。 まず、子どもが生まれてから3歳ぐらいまでの一番大事な時期に、人を信用し、安心するという状態を経験させてやることが極めて大事だ。育てられ方において、どこかが痛くて泣いていても、ほうっておかれた子と、だれかの手が添えられた子とでは、残念なことだが脳の構造まで違ってくると言われている。 これはコミュニケーションというものの最初のステップであり、ここでつまずくと、自分以外の人間は怖い存在ということになってしまう危険性がある。人間は3歳くらいまでは、自分と他人の区別をしない。心の論理(the theory of mind)という言葉があるが、他人が考えていること、つまり他人の心の動きを外から知る能力ができるのは、少なくとも3歳を超えてからだとされる。3歳ぐらいまでは、子どもたちに安心感を与えるプロセスを踏むべきだ。 次のステップは、自己抑制だ。他人と比較してという中で、自分の思いをすべて通すのではなく、自分を抑制する力を身につけさせなければいけない。ほうっておいたのでは、こういう力はつかない。今の親は子をしからないと言われるが、ポイントはそこにある。 基本的なマナーを身につけていない時期なので、いけないこと、いいことの区別をつけさせるには、動物の世界で言う「報酬系と懲罰系」、よいことをすれば褒めてえさを与え、悪いことをすれば罰が与えるということだが、基本的には人間も同じであり、そういう原理を考えながら自己抑制力を身につけさせるのがポイントではないか。 最後の段階である学童期の子には、実体験をさせたい。失敗を繰り返し、場合によっては危険な目に遭いながらも、それを乗り越えたという自信をつけさせてやる。コミュニケーションをとりながら成長するので、集団の中での自分の位置もわかっていく。キャンプとか臨海学校とかでけんかをしながら、家では親に反発しながら、学校では先生と言い合いをしながら育っていく。 だが、自分で経験できることには限界がある。それを補うものとして、文芸作品など、テレビドラマでも結構と思うが、これはというものを小学生のころに与えてやりたい。『走れメロス』にしても、『一房の葡萄』にしても、大きな問題を含むお話だが、今の子は読む機会があるのだろうかと気になっている。

自由討議

「我々がなぜ、心というものを取りあげたのか、それをどういう形でメッセージとして発するか。できるだけ簡潔に、しかもインパクトのあるような形でどう伝えたらいいか、何に焦点を合わせてメッセージを出すか、を考えることが重要だ」 「遠山さんには立派にまとめていただいたが、これを実行あらしめるために、日本特有の問題なのか、あるいは世界の趨勢なのかを分けた上で、どう社会に発信し、あるいは行政、施策に反映していくかということが大事ではないか」 「私も、それを考えている。社会の装置としてどう機能するかということまで考えないと、言いました、終わりましたということになる」 「コールセンターを設けるとか、相談事業を始めるとか、いろいろなミーティングを行うとか、そういう行動の装置として発展するのなら、効果的ではないか」 「文部省などでやったときも、いい文言でまとめられ、それで終わってしまった。これが欧米なら、日曜に説教をする教会という装置があるが、日本では宗教というのは非常に難しい。ニュートラルな社会的な装置が出てくればいいなという気がする」 「遠山さんのお話で心にひっかかったのは、子どもの問題は大人の問題ということだった。私は、日本で起きている様々な問題は、大人が引き起こしていることが子どもに反映されていたり、若い人たちに反映されていたりしていると思う。どうして日本人全体に幸福感がないのか。みんな不幸に思っていて、欠乏感がある。かつては暮らしが豊かになれば幸福になれると思っていたが、どうも裏切られたと感じている。日本人は不幸だとあおられていて、みんなそれを思い込んでいるような感じもする。そうした世の中をつくってしまった私どもも反省をしないといけないのではないか。 かつての日本の風景というのは大変に美しかった。今は、新幹線で東京を発つと、名古屋に着くまでの車窓は汚い風景ばかりだ。東京から大阪まで、新幹線の車窓を3分ごとにデジタルで写真を撮ってみたが、美しい所などはなかった。どうしてこんなことになったのか。日本人は汚いこと、悪いことに鈍感になっている。一所懸命に働いてきた結果がこれだったのか。まずは反省から始め、どうしたら反省が生きてくるのかというところではないかと思う」 「立て看板などもあり、確かにあまり美しいとは言えない。世界の国と日本とを比較してみると、日本人ほど規律のとれた国民はいない、ということも感じる。世界的な傾向として、日本はいいところを比較的残している、相対的に見るとそういうことになると思う。だが、昔の日本と今の日本を比べると、確かに美しくなくなったところがあり、方向性としては反省から始めるということに賛成だ。 学校教育が効率化されたとあるが、本当は非効率化されたのじゃないか。塾が学校教育と裏腹の問題として存在し、学校と塾の双方で、子どもたちが拘束される時間が長くなっている。教育そのものの効率が下がったこと、肥大化したということで、いろんなことに突っ込もうとする結果、大事なことが効率的に教えられなくなってしまった。心を育む問題の基礎となる事実として認識しておいたほうがいい。 もう一つ、育むべき心の中で、『自分自身で考え表現する力』ということだが、表現することにとどまらず、責任を持って行動するところまでいかないといけない。自分の目で見て、自分の頭で考えて、結論を出した上で行動し、責任を持つ。知らないことは言わない、言ったことには責任を持つことが大切ではないか。 それから、『殺すなかれ、盗むなかれ、偽りを言うなかれ』の三大黄金律を、どのように社会の中に持ち込むかを考えた場合、抵抗の多い、難しい問題であろうと思う。こういうものは教えてもむだだろうと思っていたが、このごろは教えたほうがいいかもしれない、繰り返し教えたほうがいいかもしれないと思い始めている。 なぜかというと、鉄則は鉄則で現としてあるものとして、社会に向かって繰り返し発信していくことの可否を論じてみる必要があるかもしれないからだ。むだであるとか、修身教育の復活のようなもので好ましくないという意見もあるわけで、それらに対してどう考えるかというのが、大きな問題としてある」 「フランスのある思想家が言っている。教育について語るとはどういうことかと言ったときに、『大人が見失った夢、あるいは見果てた夢を、子どもというものに投影し、そして夢が子どもには今ない、投影したものが今やないと言って、いら立っている。それが教育について語ることなのだ』と。子どもについて語るということは、実は大人が自分について語るのを嫌がっているからなのだということだ。2年ぐらい前、援助交際がメディアなどで話題にされたとき、10代の子の父である私は、まったく驚かなかった。彼女たちの論理というのは、今の社会の平均的な論理をそのまま借用しているからだ。 昔は、子どもの前で家計の話はしないものだったが、いまは違う。食卓で、お父さんとお母さんが、『今月はローンのお金が足りないから、積立用の金を回そうか』という相談を平気でする。お金を回すということ、つまり、お金はこっちで稼いだものを違うところで使っていいのだ、そういう普遍性を持つものなのだということを子どもの前で言っている。だから、自分が、アクセサリーが欲しいとき、どういう形で稼ごうと、お金であったらいいわけで、回せばいいということになる。 働くときの体は、労働力という商品であり、それを会社に買ってもらう。労働時間も商品で、何時間かを買ってもらう。体という資本を、あるいは時間を売るという形で援助交際をするのは、何も新しい行為ではなくて、むしろ社会の平均的な考え方というものを、極めてお手軽に自分の行為に適用している。子どもについて語るということは、実は大人が自分について語るべきことを、語りにくいので子供に投影して嘆くという形で語っているのだと思わざるを得ない。 そういう意味で、育むべき心とか、心を育むというときに、子どもだけの問題にしなくていいと考える。ここの徳目というのは、我々が自分自身に語るべき徳目であろう。その上で、『心を育む』の中には、同時に私たちの社会がなすべき教育とか、育みということをどう考えるのか、どういう方向に持っていくのかが、議論の中心になっているので、教育は外せない。子どもたちの問題も外せない。 そうしたときに、領域が『個人』『家庭』『学校』『社会』と並んでいるが、この並べ方は、かつての社会、我々が育ってきた社会、つまり世の中の遠近法、身近なものから世の中のことへ、個人的でないほうへという遠近法になっている。だから、自分というのが一番近くにあって、その次に近くにあるのが家庭で、その次に学校もしくは地域、その次に広い社会があるという、遠近法的な配列になっている。大人たちは自然と思うが、今の若い人たちにおいて、こんな遠近法がリアルに成り立っているかどうか、私は甚だ疑問だ。 家があって、その奥の私室が一番プライベートな場所だというイメージは、若い人には、おそらく成り立っていない。私室に入れば、親も知らない、匿名の無数の人たちとのインターネットによるコミュニケーションという形で、一番プライベートな奥まった場所が、広い交際の場所になっている可能性がある。 私が子どものときには、隣の町内に行くというのは決死の覚悟が要った。だから、世界を家から地域、地域から社会へと広げていく遠近法をたどることが、成長であり、大人になるというイメージがあった。今の日本では、一番公共的であるはずの場所で、実はものすごくプライベートなコミュニケーション、行動がなされていることがあって、家庭の奥まった場所から世の中へという遠近法は今や、ぐちゃぐちゃになっている感じがする。 そういう感覚を持つ人たちに提言をするとしたときに、この並べ方では言葉が届かないのではないか」 「僕はそこが問題だと思う。家庭の中にプライベートな領域があっても構わないのだが、それが家庭として機能しないで、孤立した空間ができ上がっているところに問題がある。社会との接点において、それこそメディアを通して、あるいはネットワークを通して、家族というフィルターを経由しないで、いきなりダイレクトに社会と接しているというところにいろいろ問題がある。 したがって、最終的に何を提言するか、個人と家庭というところで何を言えるか、難しいところだ。学校や社会一般に対しては、様々な政府機関、審議会等でいろいろなことを言ってきているので、わりと言いやすいが、個人に向けて言うとか、家庭にものを言うとなると、ほうっておいてくれとなりやすい。厚労省が1年でとるべきカロリーとか、食べ物はこういうものを食べましょうとか言うが、何を食おうと勝手じゃないか、ほうっておいてくれと言う人もいる。心の問題を、どう個人、あるいは家庭に向けて提言ができるかというのは、一番大切なところだと思う。 個人と家庭についてのみ、一つだけ言わせていただくと、マスコミが不幸なことばかりを取り上げるのではなく、積極的に人間関係の温かみを伝えるべきだというご意見があった。まさにそういうことだと思う。 学校現場でいま、急速に広がっている運動として朝読運動というのがある。授業が始まる前に、子どもたちは5分、10分、あるいは15分間、勝手に本を読む。自分が持ってきた本でもいい、担任の先生がそろえた本でもいい、あるいは教室に積んである本でもいい、本を5分間読もう、10分間読もうという運動が、3年くらい前にあるところから細々と始まったのが今では、燎原の火のごとく全国に広がっている」 「人と人のかかわりに関すること、どうすれば幸福感を持てるかということだが、やはり他人を尊敬する、他人に感謝する気持ちを育むところで、幸福感というのは育まれるのではないかと思う」 「もう一つ、『ネーション』という言葉を避けるのがいいのか、踏み込むのがいいのか、非常に大きな問題だ。日本以外の国は、ネーションを基本に置いている。日本だけは、この60年間、ネーションを避けて通ってきた感がある。シチズンシップとネーションと両方を持ったほうがいいのではないか。お考えいただければと思う」 「この会が、社会に向けて何らかの提言をする場合、どういうスタンスで提言したらいいのか。まず、我々自身が我々自身の心をどう考え、どう育むべきであるかを反省の上に立って考える。これが原点でないといけない。その上で、社会に、大人たちに向かってこうではないでしょうかと問いかける。提言の仕方のベクトルを、我々自身から社会の大人たち、それから子どもたち、これはやはり欠かすことができないような気がする。それがないと説得力を持たないと考える。 第2点は、消費第一主義の生き方は限界が来ていると、みんな感じ始めていることだ。提言には、そういう性格をにじませたほうがいいのではないか。これまでの日本社会が築いてきた、考えてきた人生観、世界観に対する反省の上に立った新しい世界観の提示をしないといけない。その場合、日本の社会に対して、世界に対して提言していくときに、日本の固有の問題として出すべき面もあるだろうと思うが、同時にそれは、世界全体の、特に先進国が経験している状況の中で普遍的な問題を共有している面がある。私は今、大ぼらを吹いているのだが、結果として、世界に対しても新しい提言となり得るものにできれば、そのぐらいの射程を持った提言にすることができればいいなと実は思っている。 ただ、このグローバリゼーションの時代に、これまでの我々の近代的な生活を主導してきたイデオロギーというのは、やはり資本主義社会、アングロサクソンのものの考え方だったわけで、それに対して、もう一つの世界観的な、人生論的な考え方があるよということを、大上段に振りかぶるのではなくて、我々の社会の分析、我々自身の精神の分析を通して、こういうことをやってきたのだけれども、それは、必ずしも従来の西洋型の近代的な思想とは違うものが、これだけありますよというところまでいければいいと思う。 これからの提言をどう取りまとめていくかだが、私が考えている軸は3点ある。我々自らの立場からということ。そして、現代の日本の社会と世界の状況が、従来の考え方ではもたなくなっているという共通認識に基づいて発想すること。その上で、日本と西洋、日本とアジア、共通するところがあるかもしれないけれども、我々としてはこういう独自性のことを言いたいと思うという、そんな全体像を考えている」 「私は、『足るを知る』ということが、やはり幸せへの道ではないかと思う。先進国とおっしゃったが、私は過進国(オーバー・デベロッピング・カントリー)というけれど、地球の枠組みということを考えようということが、これからの社会で非常に大事になってくるのではないか。日本はそれを発信しなきゃいけないと思う。そうすると、極めて日本的な『足るを知る』という言葉が、東洋的な思想であり得るのではないか」 「私たちは現状について考え、分析をするときに、昔はこうだったのにと思いながら考えている。いまでは取り返そうと思っても、状況的に無理なものと、取り返せるものとがある。兄弟をたくさん持て、と言っても無理なわけだが、例えばガキ大将なんていうのは、うまくすると取り戻せるかもしれない。今後取り戻さなければならないもの、取り戻せないものとを区別しなければいけないのではないか」 「官と民という議論をよくやるのだが、民の中身が、実はエコノミック・シンキングあるいはカウンティングみたいな世界とイコールだという議論が強すぎる。それは違うのではないか、あってもいいが、若い人がそういうふうに考えるようになっているとすれば、これは問題ではないのか。これは、オーバー・デベロッピングという話につながるのか、よその国には見られないほど極端にまで、ことが進んでいる可能性もあると考えたほうがいいのかもしれない。 だから、ある種、複合的なシステムの中で経済活動も考えていかなければいけないという前提で、もう一度位置づけ直すということも、お願いできればありがたい。ある意味で、社会の復権みたいなところがあって、それが全部、経済のロジックのために資源化されてばかりいてという、一方通行をとめるという段階もあると思うし、それと並び称せられる、ある種の社会的な固まりをつくっていくというところまで、幅はいろいろあると思うが、最後の一つのポイントになるかなと思う」 「もう一つ気になるのは、『いやし』という言葉が非常にたくさんあるが、僕の世代は非常に抵抗感がある。あれは、何かごまかすために、手っとり早く、インスタントに、いわばエンジョイすると言おうか。何かをシンボライズしている言葉ではないか」 「僕は、以前から『いやし』という言葉は、最も『卑しい』言葉だと言っている」 「僕は経済人だが、経済というのは成長し続けなければいけないとか、マーケットで勝ち残らなければいけない、そうでないと生きていけないということがあり、マーケットというものを否定はしない。だが、それにすべての価値を求めるというのは、人類の歴史の中で、おそらく経済学の歴史の中でも非常に最近の傾向だと思う。アメリカのネオクラシック経済学が、すべて損得勘定、計量化できる損得勘定の中で価値をはかろうというふうに、イクセッシブに、オーバーに流れ過ぎた結果、日本が振り回されている。 先ほど、ネーションということを申し上げたのは、ネーションは成長し続けなければならないという意味に理解いただくのではなく、心が常に定まらないというときにそれを固定するときに必要になると考えていただきたい。 それから、いやしの問題だが、これとよく似た言葉で『触れあい』がある。物事をあいまいにしたまま、先送りするという体質がシンボリックにあらわれている」 「一つ確認したい。育む心というのは、子どもの心ということなのだろうか。大人の心は育みようがないと、大人は外そうということだろうか」 「問題はむしろ大人にあるわけで、力点は子どもにある程度置いてもいいかもしれないが、大人自身も心を育み続ける心があるのではないか。そういう方向でご議論いただければと思う」 「フロイドは、50歳を過ぎたら精神分析の可能性はないと言っている。ところが、日本の伝統を見ると、心は成長し、発展、変化する、成熟するという考え方だ。フロイド的思考と、日本の文化伝統の中におけるものの考え方は、基本的に違う。我々がどちらをとるかというと、やはり日本の文化伝統から学ぼうというスタンスだ」 「確かにかつては、脳というのは、一たんでき上がったら成長もしない、変化もしないと思われていたが、極端な話、海馬という記憶にかかわる部分には、たしか60代の患者さんの海馬にも再生してくる神経細胞があるということがわかった。これは驚くべきことで、人間はどんどん利口になり得る。なり得るというところがポイントだが」 「発達という言葉も、従来は未成年者が成人するまでの心の変化、行動の変化を発達と呼んでいたのが、今は誕生から死までの年齢の変化を発達という概念でとらえようとなっている。子どもがある能力を獲得していくことだけが発達ではなく、持続というのも発達であると言っている。心を育むというのは、子どもの問題だけではないことは確かだ」