活動レポート

第4回有識者会議 基調報告:中村桂子さん(JT生命誌研究館館長)、佐々木毅さん(前東京大学学長)

meeting04日本人の「心」を探り、21世紀を担う子どもたちにどう伝えるべきか――。各界を代表する有識者が日本人の心のありようについて論じ合う、「こころを育む総合フォーラム」は7月25日、4回目の会合を開いた。今回は、メンバーから中村桂子・JT生命誌研究館館長と佐々木毅・前東京大学長の2人が基調報告。この後、自由討議に移り、張富士夫・トヨタ自動車副会長ら出席者13人が意見を交換した。

基調報告 1

「生きるということ または いのちを基本に――生命誌という視点」中村 桂子(JT生命誌研究館館長)

私の専門である生命誌から言うと、生きるということについてはかなりのことがわかってきたが、心についてはまだ、どうとらえていいかわからないところがある。それで、心というものを、「生きるということ」から見てみたい。 さらに今年は戦後60年で、多くの方が戦争体験を語っている。人の命を奪うことが当たり前になってしまうという体験談を聞くと、心が痛む。命というものをきちっと考えておかなければいけないと強く感じる。「命を基本に」としたゆえんだ。 科学について、光と影ということが言われる。原爆などは影の象徴だが、光の象徴として挙げられるのが利便性だ。しかし、私はこの利便性に対し、今や検討の必要があるのでは考えている。利便性とは、早くできる、手抜きができる、思いどおりになるということだろうか。スイッチを押すだけでご飯が炊けるというように。ただ、便利一辺倒になっていくところに問題があるのではないか。 子どもに早く育って、と言っても育たない。1歳は1歳、3歳は3歳、むしろそのことに意味がある。思いどおりにならないのを楽しむのが生きることなのかもしれない。だが、今の価値観はそうなってはいない。 特に問題が起きているのが食べ物、健康、環境、そして教育だ。これらは機械の論理ではなく、生き物の論理で考えねばならない。農業は、自動車産業と同じ効率で比べられないのであり、農業を農業の論理できちっと拾わないから、みんなが安心で安全と思う食べ物が手に入らないのではないか。健康しかり、環境しかり、教育しかり。早く、早くと競争しているばかりで、プロセスを楽しむということをしていない。 生き物の特徴は、大きく分けて2つある。1つは、つながりの中にあるということだ。 生き物は38億年ほど前、地球の海の中で生まれた1つの祖先から、38億年をかけて5000万種といわれる多様性を得た。38億年という時間のつながりの中に、5000万種の生き物たちが全部つながっている中に自分がいる。 人間も、このつながりから外へは出られない。鳥は飛ぶことで、イルカは泳ぐことで生きる。人間は、大きい大脳と器用な手、言葉、非常によく立体視ができる目を与えられた。文化とか文明とかをつくるのが人間の本質だが、生き物のつながりの中にいるということからは離れられない。それをもとに科学技術をつくっていかなければならない。 もう1つ。生き物は38億年の時間を持っている。生き物は、たった1個の細胞から始まる。38億年前も1個の細胞から始まったし、人という個体もそうだ。1個の細胞が、お母さんのおなかの中で人間になり、生まれ、育っていく。プロセスそのものが生きることであり、時間を切るという便利さの方向に行くと、プロセスを楽しむことが難しくなる。そこに問題点があると思う。 『虫愛づる姫君』というお話がある。11世紀、『源氏物語』と同じころに書かれた短編集で、毛虫が大好きなお姫様が京都にいて、周りは毛虫なんかかわいがっていたらお嫁に行けません、やめなさいと言う。お姫様は話す。あなたたちは、蝶をきれいと言うが、毛虫が長い時間をかけて蝶になっていくのだ。きれいな蝶になってしまったら、後ははかない。むしろ生きるという基本的なことは、毛虫の中にある。そのプロセス、変化をじっと見ていくと、美しさの本質はこの中にあるのですよ、と。「本地たづぬる」と仏教の言葉が使われているが、その本地、本質という言葉が文学に表れた最初の例だという。 「愛づる」ということは、物事の本質を見つめ、むしろ理性も入れて考えるということで初めて生まれてくる愛、フィロソィーのフィロだと思う。そういうものが日本の11世紀の文学にあったことに注目したい。その社会にないものが急に生まれるはずはないので、この愛づるという言葉は、知識、体験、知恵をつなぐキーワードになると考えられる。 子どもを愛するのは、この愛づるではないか。赤ちゃんを抱いたり、おっぱいを飲ませたりするうちに本質が見えてきて、とてもかわいくなる。それが子どもに対する愛ではないか。ただ、今は、そういう時間が与えられていないように思える。 今申し上げたようなことを、小中学校の国語の教科書に書かせていただいた。理科の教科書では、免疫は高校になってもちゃんとはやらない。だが、国語の教科書で、あなたの体は自分を守ってくれているのよと書くと、小学4年生が免疫の本質をわかってくれ、体がどんなにすばらしいものかわかったと手紙をくれる。 こういう形で、子どもたちにたくさん読ませたい。今の国語の授業で困るのは、文章を一所懸命に分析してお読みになることだ。そんなことはしないでください、これをきっかけにもっと広がった部分を子どもたちに読ませてくださいと願う。 子どもたちからの手紙で、「生きているってすばらしいことなんだと思いました」というのがあり、最後に「たまに自分が生きていることに意味はあるのかと思い悩むときがあります。自分には生きる価値さえないんじゃないかとよく思います」。ここから先がかわいいのだが、「なぜなら自分は人に迷惑ばかりかけて、ふざけていて、そういうふうに見られている。桂子さんは、そういう経験がありますか。あるのなら、自分のこの気持ちを少しでもわかってほしいです」。こんな手紙が来る。私も一所懸命、お返事を書いている。 こんな形で、日常的なところで生きるということを考えることが、心につながるのではないかと思っている。

基調報告 2

「公共性との出会いの中で」佐々木 毅(前東京大学学長)

公共性との出会いというのは何か。目前の利益の実現や権力の獲得といった活動とは距離を置いたものと考えていただきたい。 1番目に、「滅私奉公」型からの転換がある。「公」がある主体に独占され、権威が集中している。そこでは自らを無にして言うことを聞きなさいというタイプの、公のあり方の構造にかかわってきた。そこで、むしろ自分たちをそれなりに生かす可能性を追求しようではないか。受け身ではなく積極的な関与ということで、滅私奉公に隠れていた「私」を引っ張り出し、積極的な役割に転換する可能性を探る時代に入ったのではないか。 そうすると、閉じこもっている状態、あるいは組織の縦割りの中で自らの役割を限定することで、その役割でもって自分というものを意味づけていたのが、そこから1歩、2歩出なければいけないことになる。組織の中なら、自分はこういうことができて、していたという話は意味があったが、そこでは当然、自分の認識や体験が、ほかの人間の認識や体験の中で継続的に相対化されていく。 その意味で、まさに自分というものを問い直すということ、何と問い直されるか、そのものも極めてスリルに富む世界だ。この公共性との出会いという場では、自分のしてきたこと、体験をどう整理し、どう伝えるかという能力が根本的に問われる。単なる自己主張であれば、こういう場に出てくる必要はないのだが、それを超えて何かコントリビュートしたいという空間で始まる世界だ。 異質性との出会いによって、自分のこれまでの見方、考え方が揺らぐ。一面的であるのは当然だとしても、どのように一面的なのか具体的に認識を迫られる。自分の体験や認識の意味はどこにあるのか、それまでとは違った形で説明する必要性も出てくる。 ただ、この世界もしばしば堕落する。いわば見える世界の話になってしまうわけで、必ずしも愉快とばかりは言えない世界であることも覚悟しなければならない。新たな自己を育まないで、パフォーマンスばかりをやる人が増えてくる危険性もある。 こういう世界に入るということは、何らかの形で新しい現実をつくるために共同で活動しようという出口につながることが一番望ましく、期待されるところだろう。出発点ではこう思っていたが、実は2や3のプロセスを経ることによって、今までとは違った役割や、得意、不得意をもとにした協力関係ができてくることになれば、一つのサイクルを形成するということになるのではないか。一種の社会をつくっていく人間たちの協力や連帯が、一つの社会的に大きな、貴重なストックであるという認識が出てくる。 実を言うと、政治論の中では、なぜ政治に参加しなければいかんのかという議論が、いつも根本問題としてある。多くの人間が、自分のことは自分で判断するのがいい、だからみんな自分で参加するようにすべきだという議論があるが、人間は本当は自分のことがわかっていないんじゃないか、もっとわかっている哲学者に任せたほうがいいんじゃないかという、これもまた昔からの議論がある。 最後に出てくる議論は、実は参加するということは、今まで自分ではわからなかった自分の新たな人間としての可能性を開く一つの重要な手がかりになる、だから、具体的な政策問題等におけるジャッジメントの正しさという問題だけに議論を収れんさせるわけにはいかない側面があるといったことが、ずっと議論されてきた。それぞれの人間の、特にプライベートな世界、あるいはインティメートな世界、あるいは内密な世界といったものの大切さを別に否定するわけではないが、そればかりが大きくなってしまうと、結局のところ、ますます自己は大変大事なものになっていくだろう。その意味で、公共性との出会いというのは、社会を通して自らを再把握し、その意味で社会的動物としての人間のあり方を常に自身で自覚させていくと言おうか、そういうプロセスとして考えることができるのではないだろうかと考えている。

自由討議

「滅私奉公の滅私には、我々は悪い記憶しかないが、もう少し時代をさかのぼらせると、この言葉の言い方のかわりに無私とか無心という言い方があった。無私とか無心という考え方は重要なこと、と受け取ってきたわけだが、それがどの段階で、どうして滅私といった言葉に変わってしまったのか」 「私が懸念したのは、こころを育む総合フォーラムという形で、市民社会にメッセージを出すとき、それは滅私奉公の、かつての滅私の心に近いものではないかと誤解する層が多いかもしれないということだ。我々がこのフォーラムの成果をどう社会化していくかというときに、やはりこの問題がどこかでひっかかってくるような気がした」 「我々人間も、生き物の世界にいるというとらえ方、あるいは社会の中に我々も生きている、公共性の中にあるというとらえ方が必要になってきている。そのときに、生き物の世界、あるいは公共性といったものが見えなくなっているのが、大きな課題になっている。 滅私というのは、自分を殺して他者に尽くすという感覚がするが、おふたりのお話では、むしろ自分も生かし、他者も生きるという感覚がする。他者と自己、生き物の世界での自己という相対的なとらえ方をどう打ち出していけるのかが大事なのではないか」 「私も同じような見方で聞いていたが、中村さんのお話は、どちらかというと人間から見て、人間以外のものとのコミュニケーションをきちんととるようにという意味のようにうかがえないことはない。佐々木さんの話はむしろ、人間の中で個人がどうあるべきかを問うておられる。 『社会力』という言葉があるが、個人が社会で生きていく力というだけでなく、社会に対して何ができるか子どもに力をつけさせていく過程が大事とする、広い意味を持っている。自分を抑制しつつ、他のものも認めるという、それがおそらく社会力の本質だろうと思う。佐々木さんの話で言うならば、子どもが育っていく過程の非常に重要なところを同時に考えていく必要があるだろうと思った」 「佐々木さんが言われた、社会を通して自己を検証し、自己を再把握するという考え方をプリミティブに赤ん坊の段階までおろしたときに、赤ん坊の段階でそれがうまくいっていないということが大きな問題としてあるかもしれない。つまり、赤ん坊が泣くと、だれかが応答する。これが赤ん坊にとっての社会で、公である。応答されることで、赤ん坊は自分の存在を確認し、泣き方によって応答がさまざまに変わることで、否定される要求の仕方と肯定される要求の仕方を分別しながら、人とのつながりの中で生きていく。自分というものをつかまえていく最初の段階がうまくいっていないため、自分をきちんとつくれないままに学校教育の中に入ってしまう子どもたちが多くいる。 学校教育の中で、自分を充実させるための試みも受けとめることができないし、公の中に自分が存在することの意味もよくわからないまま年数を重ねてしまう。教育の中で公共性の回復が言われるが、子どもにとっての公共性とは何か、丁寧に問い直していくことの示唆として興味深くうかがった」 「総務省によるユビキタスの調査があり、人が直接、他の人と対面する時間が非常に少ないという結果が出た。確か、マイナス19%だった。人間性というのは、周囲との関係性の中で自我なり、人間性なりを獲得していくと思うのだが、関係性を持つ機会が少なくなっていることが現代社会では問題なのかなという気がしている。 子どもたちも教室の中での接触が意外に少ない。一方通行の授業でなく、互いがかかわりあう方法、双方向な教室、あるいは体験型の教育が必要だと思う。人、物、金がかかるが、できるだけ充実していくことが必要ではないか。 公共性へのかかわりだが、最近、高齢者の間にそうした動きが強くなっているようだ。数々のNPOが結成され、お金にもならないことを一生懸命、わいわいやって、少し社会に役に立つところがうれしいという、そういう公共性へのかかわりが出てきている」 「人間も生き物と同じになろう、ということではなく、そこから学ぶことがたくさんあるということだ。共生、共進化というのが生き物の基本であり、滅私的なものをイメージされるが、生き物は一つとして滅私のものはない。自分の能力を最大限にいかし、必死に生きる。結果、一つが残るということはなく、最終的につながりができたのが現実だ。 もう一つ。生き物が生きるということは、子孫を残すことに尽きる。自分を生かすというのは、まさにその極にある。だから、生き物というものを見たときには、思い切り生きているんだよというところを見るのが大事かなと思う」 「司馬遼太郎と山本周五郎という国民的作家お二人の作品に共通するテーマが奉公だと思う。奉公という行動を通して人間は成熟し、社会のために貢献する。そのために立身出世もするという思想で貫かれている点で、共通している。丁稚奉公から始まり、家、家庭、家業のために奉公する。結果として藩のための奉公になり、国のための奉公になる。 問題はそこでとどまっていたことで、世界への奉公というテーマは出てこない。ただ、そのぎりぎりまでのところで、日本の伝統社会においては、あるいは明治以降の社会においても、やはり奉公というのは重要な、人間を鍛えるキーワードであるという点では、お二人は共通していたと思う。 奉公という言葉に対するアレルギーは、日本の市民社会に強い。公共性に出会うことと奉公という考え方は衝突すると考える人が多いのか、それは少しずつ改められているのか。この会が社会にアピールしていくときに、奉公とか奉仕という問題をどう位置づけるか、重要な問題としてひっかかってくる気がする」 「アレルギーを起こしやすい滅私奉公という言葉が、一番強く存在した時期はいつだったのかという点だが、『武士道精神と日本型能率主義』という本の書評を頼まれて読んだ。武士道は滅私奉公だと言われるが、実はそうではないと。『葉隠』にも書いてあるが、自分の信ずるところに反する場合は、主人に対してでも徹底的にいさめなければならないと。強い自負とか信念を持つのが滅私奉公の形なのだと書いてあった。 もう一つ。アメリカ人の経営者に、おまえは何で何百億も自分で使い切れない金を稼ごうとするんだと聞いた日本人の経営者がいて、アメリカ人の経営者は、おまえ、金は使うために稼ごうと思うのは間違いだ、自分の人生がどれだけ成功したかを計る物差しとして稼ぐんだと答えたという。その日本人の経営者は大変、違和感を持ったそうだ。でも、日本では、勲章というブリキの板を欲しいために、自分の人生をそれで計ってもらおうと思っている人が多い。アメリカ人を笑えないのではないか。 今の日本人が滅私奉公から離れ、自己をより主体化する方向に動いているかというとそうではなくて、人によって評価されないと気持ちが休まらないという方向に動いているのではないか。マスコミから評価されることであったり、上司から評価されることであったり。心を育むというのは、内省的な意味で自分をどう自立させるか、福沢諭吉が言った独立自尊という言葉に表される気持ちを持たせるかどうかということなのかもしれない。 愛づる心の裏表には必ず疎んずる心みたいなものがあって、これは中村さんが言われるとおりで、すべてを愛づることはあり得ない。その対象が問題で、パソコンの中に出てくるバーチャルな存在ばかり愛でていると、リアルなものを愛づる心が失われてしまう。そこに人間が人間でなくなってしまう大きな要素があるのかなと。農業とか生き物とかリアルなものに関心を持たせることが大切か、と共感を持ってお聞きした」 「中村さんは、生きるということをどういうふうにとらえるか、根本を見直そうと問題提起された。育むべき心はしっかり生きるということ、その中で心をどのように持っていくかということにつながっていく。それを生きるという角度から考えてみようよと。 植物とか小動物を育てることを教科で取り上げ、愛づるまでは無理としても、生命を育むことを通して、子どもに教えようとしている。ただ、その教え方が、理科の教科の中で、生命体がどう成長するかという角度からであり、どのような心を持ってこれに対応すべきかというあたりが抜けている。 佐々木さんのお話は、大人が自己を確立していくために、社会とのかかわりにおいて、あるいは公共とのかかわりにおいて自己を研さんし、みずからの存在としてのあり方を確立していくということについての問題提起であったかと思う。 これを子どもの次元にどう反映させていくか。イギリスとかスウェーデンでは、子どもたちにシチズンシップという角度で、しっかりした教育がなされている。市民としてどのような知識なり、生き方なり行動なり、心を持つべきかということで、11、2歳の教育のカリキュラムに取り入れられている。社会とのかかわりでどのように自分が生きていくかということもだが、むしろ社会に自分がどのようにかかわって、社会をどのように形成していくかを教えているようだ。 自らを研さんし確立させるために、公共というものとのかかわりにおいて深化させていくことはもちろん大事だが、公共あるいは社会というものが、自らを研さんするに値するものであるのかどうか、その社会をどうつくっていくかということにおいて、個々の人はどういうふうにかかわっていくのか。社会ないし公共というものをどうとらえ、どうかかわっていくべきか、お教えいただければありがたい」 「人間の欲というものに焦点を当て、どうコントロールすべきかが、心の問題をはっきりさせるために必要なのではないか。無心とか無私というお話も、欲望との関係と思う。権力とか金とか人間特有の欲望をどううまく扱うか、どの欲をどういうふうに持っていけばいいのか、どう転換するかということが大事なのだろう。 若いころから剣道をやっており、道場で、先生に『欲を捨て去れ』と言われ続けた。正眼の構えというのは、剣先が相手ののどにピシッとついているので、相手がどんな動きをしようと、構えが崩れなければやられない。なぜ崩れるかというと、恐懼疑惑、つまり恐れる、惑う、驚く、疑うといった気持ちが生じたときに剣先がぱっと動く。あるいは、いいところを見せようと思い、無理に打っていくことでやられてしまう。道場で10年間、何を学んだかというと、どんなことがあっても剣先が動かないということだった。本能的な欲というものに、いかに打ち勝つかということだ。 自動車には便利さがある一方で、事故とか環境問題とか負の側面もたくさんある。便利さ、いわゆる結果ばかりを追うと、心の問題はどんどん遠ざかっていく。過程を楽しむことが大事だという中村さんのお話はよくわかった。企業人としては、負の問題を解決することと同時に、そのへんを大事にしていきたい」 「シチズンシップという概念は古いが、どういう出口と結びつけて論ずるかが重要になってきている。日本では、人間の権利は教えるが、シチズンというものが何なのか、どういう形で教えているのか、検証する余地があるのではないか」 「子どもたちにシチズンシップをどう教えるかだが、リアルなもの、身近なものから教えていくべきではないか。まず家族、それから隣人、あるいは友人たちといった人間関係、『愛づる心』というものを教えていく。そして国というものを教えることが非常に大切だと思う。それが、地球規模に広がり人類になる。心を育むという意味で日本の教育に欠けているのは、幼い時代や小中学校の時代に、これは立派なことなのだということを身近な体験で理解できるよう子どもたちに教えてやることではないか」 「子どもたちが中村さんの文章を読んで、自分は何のために生きているのかと考える。10人、100人の中村さんがいれば、大きな教育効果を上げるのではないか。企業としても、工場を積極的に小学校等に開放している。子どもたちの感想文を見せてもらったが、なかなか感動的だ。そういう活動で何らかのコントリビュートができると思っている。 佐々木さんのお話では、社会とのつきあいをしないと、テストを受けない自己がますます蓄積していくという点で考えさせられた。現在の企業人はテストの受け通しであり、世間はどう見るかを常に考えている。ただ、社会とのつながりというのがマスコミの批判を通じてなのがしゃくなところで、もう少し本質的な問題としてとらえることができれば、我々はもっと成功するのではないか」 「中村さんから、便利さを追求することで人間本来のプロセスを省略してしまうことが起きているとの指摘があった。企業も、本来は便利さと相いれない環境、教育にも取り組んでいく時代に入ったのではないか。 佐々木さんは、公共性との出会いの中での滅私奉公を問題にされた。戦後60年の中で、まさに滅私奉公で企業のために集団構成員が働いてきて、日本は成長してきたと言える。反面、最近は滅私奉公の考え方にむしばまれ、本来は企業が持つべき透明性とか説明責任をなくしてしまった。そういう点で非常に反省している。 千葉・幕張に、バブル期に当社グループが得た約1万坪の土地があるが、どう活用していいかわからないで放置されてきた。そこで、1万坪を桜で埋めようじゃないかという結論となった。2年ぐらいで花が咲く苗木があるので、来年にはそういうことができるのではないか。そういう事例にいろいろな企業がいくつも取り組んでいったら、人間の心も、子どもたちの心も変わっていくのではないか」 「お話の中で一番印象に残ったのは、中村さんの資料に添付された幾つかの小中学校の国語教科書だ。私どもの企業は大学生を中心に入社試験をしているが、国語と第二言語、社会常識だった試験項目を、数年前からは国語だけにした。国語の教科書は小、中学生が心を育む上で最も大切なテキストブックだと思う。そこから何を学んで、成長していくのかが大切だということを痛感した。 この問題について話し合ってみようと書いてあるが、そういう教科書が今の小中学校で広く使われることが非常に大切だと思う。英語、算数の教育も大切だが、特に国語の教科書が大切だ。この会はある社会的な提言をするが、その中にはぜひ国語教育の再定義というか、そういうことをぜひ盛り込んでいただきたい」 「教科から修身がなくなったがゆえに、そこで教えられた潔さとか正直とかが失われたのではないかという気がしないでもない。そういうことを一体どういう形で伝えられるのか。国語の教科書に一部出てくる形でもいい、考えてもいいポイントではないか」 「子どもたちは直感的に大きなものがわかるし、深いものもわかる。子どもの質問のほうが鋭いことはよくあるので、大人の側はコンセプチュアルなものを持っていないといけない。なのに、今の大人たちはそれを持たずに行き当たりばったりで対応する。それが子どもたちを不幸にしていると思える。小さいところから大きいところまでつなげた、いわゆるコンセプトを社会が持つということをぜひやりたいと思う。 例えば財務省が、株の買い方とかを子どもの教育に入れる、社会性を育てるからと言う。まず100円を持って近所で買い物をしたときに何が買えるのかというようなことをせずに、突如、株の買い方をコンピューターでやるという。私にはすごく疑問に思えた。そういうものがぽんと出てくるのは、こちら側にそのコンセプトがないからだ。 国語の教科書でなら、理科では言えないことが言えるという状況がある。子どもたちに少し刺激を与えれば、高いことがおのずとできる。その入り口はやはり日本語じゃないか。作者は何を言いたいのかと2時間も3時間も考えさせるのではなく、どんどん読ませる教育に変えてほしい。半分わかるぐらいでいい、どんどん読みましょうと。 ここ数年、強く感じているのが芸術家の人たちのアプローチだ。例えば、豊竹咲甫太夫さんという義太夫の若手がいらっしゃる。彼の受け売りだが、義太夫は日本の芸能の根本であると。義太夫から能が出て、歌舞伎が出て、狂言が出てと話された。僕たちも「共生と共進化」を目指しますと言われ、野村萬斎さんとか、若手の方たちが一緒になり、お能の鼓と義太夫の三味線が一緒の舞台でということを今やっていらっしゃる。 大事なのは表現だと思う。科学などは論文を書いていたのではだめで、本当にわかるように表現していかなくてはならない。表現に敏感な芸術に携わる方たちの力を活用していくのは、心の問題を考えるには非常にいいのではないか」 「人間は、呼吸をして生きている。吸う、つまり勉強してため込んだのをうまく吐くところに、表現というのがかかわる。表現、つまり吐くということをきちんとしないと、自分のメッセージ性を発揮できない。窒息してしまう。教室でもどこでも、窒息して苦労している人が非常に多い気がする。 私は公共劇場の仕事にかかわり、ワークショップという表現教育をやっていた。そういう表現形式は古くからあり、武士の世界であれば謡や能がそうだった。日本人はいま、そうしたツールを忘れている。今の学校の授業は効率的になって、文化発表会みたいなものはなくす方向にある。でも、そういうチャンスをつくって、子どもたちの成長、つまり呼吸を助ける教育をするのが大事だ。心の発達に寄与すると考えている。 もう一つ、滅私奉公とか古い言い回しがあるが、換骨奪胎というか、本来の意味を取り違えて運用してきたようなものが随分あると思う。そういうタームをとらえて、本来の意味は、本質はこうだったと再定義してみる。そうすると、現代人がリフレッシュメントして感じられる。そういう幾つかのタームをリフレッシュメントし、再定義し、新定義として呼びかける方法論もあるかなと思う」 「おっしゃるとおりです。話題になっているシチズンシップは、国の別を超えて普遍的なものという考え方と、イギリスと日本ではおのずから違うだろうと考えるいき方と、大きく分けて2つあると思う。 イギリス流で考えると、自由と規律といったキーワードがすぐ出てくる。その問題を日本の文化、日本の社会、土俵で考える場合にどうなるかが、実は心の問題を考える場合に重要になるのではないか。その違いを発見するのが、この会の重要な役割かもしれない。 それから、共死、共進化の問題だが、共生・共死というペアの関係で生き物の世界は考えていく必要があるのではないか。共生という場合は、比較的、普遍言語に置きかえやすく、すでに国を超えた概念になっている。ところが共死では、人間はいかに死ぬかという問題になると、かなり民族性とか文化、文明の問題と深くかかわってくる。共生ということで普遍的な理念というものを考えていくのは大事だが、同時に共死ということで、日本列島に育まれた文化、心を再定義するときに考えていく手がかりになる気がする。 ただ、日本の宗教界は絶対に共死という言葉が採用されない。重要な言葉なのに共生と同じ比重で受け取ることはほとんどしない。キリスト教界でも仏教界、神道界でも、外国の例を見てもそうで、死の問題は隠ぺいされ続けている。しかし、その問題を抜きにして心の深みのあるところの世界を探索することはできないのではないか。シチズンシップを日本のレベルで考える場合、どうしても必要になってくると感じる。 もう一つ。若者たち、学生諸君と飲んで話すときに、私の言説の中に欲望のコントロールということが出てくるが、我々の世代は、欲望を抑制することはプラスのある事柄とは考えませんよと言う。欲望は、むしろ解放して満たすことが新しい市民社会の原則じゃないかと。禁欲にアレルギー反応を起こす。ましてや滅私奉公も、無心無私もいけない。欲望をいかにマイルドに解放していくかに関心が集中しているところがある」 「私が大学にいたとき、一人の女子学生がひどい格好で座りながら話を聞いていたので、しかりつけたことがあった。セミナーが終わったとき、彼女が私のところに来るので、殴られるのかと思ったが違った。『私はこの年になるまでしかられたことがなかった。ありがとうございました』と礼を言われた。つまり、育っていく過程で、きちんとしかられたことがあったかという問題だ。それは、非常に大事な、価値観という前の問題だろう」 「私どもは安全にお客様をお運びするのが最大の任務であり、規律とか忠誠心といったものが不可欠な要素になる。若い人たちは、欲望を解放するという言葉は知っていると思うが、自分の欲望が何なのかということをあまり知らない。 試しに、『あなたがここへ来たからには、お客さまの生命を安全にお運びし、喜んでもらえることがあなたの欲望なのだ』というふうに教えると、比較的にスムーズに受け入れられる。今のお話の女子学生と同じで、きちんと教えられたことがない。欲望を自分で制御していくことは十分可能な柔軟性をまだ持っているように思える」 「そうすると、先ほどのシチズンシップを日本語に直すときは、市民倫理と訳してもいいようで、そういう側面も含んでいる。その市民倫理というものが、戦後の道徳教育、公民教育の中で必ずしも十分に行われてこなかったということかもしれない」 「今の社会の問題、例えば幼い子が泣いているのを、親が、黙らないからと虐待してしまう。自制心とか、育むということの意味とか、それこそ『愛づる』プロセスを知らないとかにつながっていくのだが、今の犯罪、反社会的な行動の多くの部分がそこから出ているのではないか。 人間として自らの欲望をコントロールしなくてはならない、それは公共のため云々というふうにつながっていくと思うが、なぜそうでなくてはいけないかをうまく説明でき、それを育むにはどうしたらいいか。道徳教育では転換を図ることができないような、いささか絶望的な機運になっている。その壁を乗り越えるための論理をどう訴えていくか、お知恵をお借りできたらと思う」 「この前の会で、『殺すな、盗むな、うそを言うな』という話をしたが、強い倫理的な命令というか命題を言う人が少なくなっている。相当自信がないと言えない。日常的にいろいろな生命を殺しているわけで、殺すなとはなかなか言えない。そのため、殺すなと言うかわりに命を大切にしようと。盗むなと言うかわりにものを与えよと。うそを言うな、と言うかわりに真実を語れと。 おそらく近代的な人間観に基づく結果、そうなっているのだろう。釈迦も、イエスも、マホメットも、そして聖徳太子も言った「殺すな、悪をなすな」という言葉は、やはり天からしか聞こえてこない。現代においては、天から聞こえてくる言葉に、ものすごく鈍感になったというか、さっき言われたようなジレンマになってきていると思う」