活動レポート

第2回有識者会議 基調報告:鷲田清一さん(大阪大学副学長)、葛西敬之さん(JR東海会長)

第2回BM P1040087「こころを育む総合フォーラム」は5月16日、東京都心のホテルで第二回目の会合を開いた。今回は、メンバーの鷲田清一・大阪大副学長と葛西敬之・JR東海会長がそれぞれ、「食と心」「JR東海の社員教育」をテーマに基調報告を行った。その後、自由討議に移り、出席した13人のメンバーが意見を交換した。

基調報告 1

「食のほころび、『こころ』のすさみ」鷲田 清一(大阪大学副学長)

「最近では、家族そろって夕飯を食べる光景は少なくなってしまったが、私たちが子供のころは、みんなで一緒に食べるということをとても大事にした。夕飯に間に合わないときは、きちんと連絡しておかないとこっぴどくしかられたものだ。どうして、みんなでそろって食卓を囲むということをそんなにも大事にしていたのだろうか。 教育という観点から考えた場合、三つの意味があったのではないか。 一つは、他者への想像力だ。これは「思いやり」の基礎にあるもので、味覚というのは相手の顔を見て類推するしかない。お母さんは、家族から「またカレーか」と言われながらも、子供や夫に「おいしい」と聞いたりする。味覚というのは簡単には共有できない感覚であり、食卓は、相手の感覚を想像する、つまり想像力というものを育むのにすごくいい場なのだ。 二つ目は、これはさらに大切なことなのだが、家族そろっての食事によって相互の信頼という人間における一番基礎にあるものが育まれる。私たちの食は、幼いころに親から食べさせてもらうことから始まるが、私はかねがね、体を洗ってもらう、おしりをぬぐってもらう、寝かしつけてもらう等を『存在の世話』と呼んできた。存在の世話をしてもらった経験というのが、おそらく人間の他者への信頼、あるいは社会への信頼というもののコアにあるのではないか。 学校教育というのは、これができたら次の学年に上げてあげますよというように条件つきで相手を肯定するところにある。子供はだから、この条件を満たさないと私は大切にされない、認めてもらえないという不安を裏に隠している。それに対して、赤ちゃんのときに食べさせてもらった経験は、無条件で自分の存在が肯定された経験だ。そうした経験がおそらく身体に深く沈殿していることで、人は最後の最後のところで他人への信頼を失うことなく、他人を信じるということがあるのだろう。これを裏返すと、こうした経験がないということは、すごく怖いことなのだ。 三つ目は、家族そろっての食事は、何よりも人間に幸福感を教えるということだ。嫌というほどお乳を飲んで満足した感覚が、私たちの幸福感の基礎にある。口という器官には人間の幸福が集中している。食べることはもちろん、話すというコミュニケーション、笑う、泣く、歌うといった感情の表出、他者を愛撫するといった機能が口に集まっている。裏返して言うなら、不幸も口に出るということだ。生きることへの意欲、意味というものが見えなくなったとき、私たちは簡単に食を拒んだり、言葉を失ったり、あるいは他人との接触を恐れたりする。そういう意味で、人間の幸不幸という感覚も、実は食の場でその原型がつくり出されたのではないか。 では、今の食はどういうふうになっているのか。もっとも基本的な特徴は、調理のプロセスがどんどん外部化されてきたということだろう。 命の基本にかかわる営みは、近代化以前の社会ではすべて家族という場、あるいは地域という場にあった。だが、近代社会においては、こうした家庭での最もベーシックな営みを外部の公共的なものに委託したり、サービス業に代行させたりする制度を完備していった。レストランとかファストフードとか、あるいはスーパーマーケットといった場所へと外部化させてしまった。 これは女性の解放という意味では確かに、非常に大きな意義があった。家族において、こういうプロセスは女性だけが担わされてきたからだが、私は、解放の仕方が間違っていたのではないかと考えている。女性だけが負うのではなく、男性もやる、大人もやる、子供もやるというふうに、みんながこの命のプロセスを分担し、かかわるという方法での女性の解放というものこそが望ましいものではなかったのかなと思う。 例えば、調理というのは本当にいい教育装置だ。私は子供のとき、夜店で釣ってきたウナギでかば焼きをつくろうとしたことがある。素人はとてもきれいにはさばけない。ウナギは私の左腕に体を巻きつけ、全力で抵抗した。 あらゆる命は殺されるときに必死で抗うということ、けれども、人は殺さずには生きられないということだ。そうした当たり前の事実が調理の場で突きつけられる。 ある華道家の方とお会いしたとき、お花のプロセスを見せていただいたことがある。命ということに関していうと、まず枝を折るわけで、葉と花弁の要らないところはむしる。枝にしても、人間なら悲鳴をあげそうなくらいに矯めてしまう。極めつけは、剣山にぶすりと挿してしまう。私は、それでお花というものに興味を覚えた。 今は、スイセンでもカキツバタでも、一番元気のいいところ、お花だったら開きかけとか開ききったところというのがよくて、しぼみ始めたらすぐ片づけてしまう。ところが室町時代の立て花のお手本を見ていくと、スイセンでも、茎や葉がへなへなとなりかけているのを生けることがある。昔のお花というのは決して、花は盛りだけということではなく、つぼみから花が開き、花がなえ、そして落ちるところまで、それぞれの命の段階で表現する。そういうお手本を持っていたことを知ってショックを受けた。 私たちの命の感覚というのが、いかに狭く定型化されてしまっているかということだ。そういう意味で、お花というのは、他の命を奪うことで私たちは生かされているという事実を常識化して、絶えず人に突きつけるという営みだったのであり、実はすごい教育装置だったのだな、と改めて感じた。 まとめとして、食というものが、ある意味で心を育むという営みのコアにあることを確認しておきたい。私たちが他の命を奪って生きているということを一番リアルに確認できるのが、食あるいは調理の場ということであり、私たちの中に他の命がある、私たちがここにいられるのは他の命のおかげであるという事実を、日に三回も突きつけられる。教育のチャンスが日に三回もあるのだ。ところが、昔は食べないと人は死んだのだが、現代では食べると死ぬというような非常にアブノーマルな形になってきている。 つらいのは看護の現場や看護学で、被介護者の食事のお手伝いをすることを「フィード」と呼んでいるが、この言葉は「えさを与える」ということだ。もちろん、そんなつもりで使ってはいらっしゃらないのだが、看護学でそういう言葉が使われているというのも悲しい事実だなと思う。言葉遣いだけの問題ではないのではないか、という感じがする。 昔、霜山徳爾という精神科医が、人間の条件について考える本の中で、一人の料理人の言葉を紹介していた。『ものの味わいのわかる人は人情もわかるのではないかと思います』。自分のために働いてくれている人、つまり料理をつくってくれている人への思いがなければ、味なんてわからない。どんなふうに調理されたのか、だれがつくってくれたのか、どんな味を今経験しているか等、食べる場というものはそういう想像力を育む、非常に重要な場になるのだ。 昔から私たちの生活の価値として真・善・美ということがよく言われる。真というのはサイエンスの形をとり、善は、もちろん道徳もそうだが、他人への思いやり、他者への想像力、異民族あるいは他の性への、あるいは他のメンバーへの想像力であろうと思う。美というのは、芸術、あるいは芸術的なクリエーションだが、これらの、真・善・美を求める営みの一番コアになるのが、実は想像力だろうと思う。 科学は目に見えるものから出発し、目に見えるものの背後にあって、その出来事を規定している目には見えない構造を探りにいく。思いやりというのは、他人の思いを想像することであり、クリエーションというのは、目の前にないものを使ってないものをつくる営みだ。そうした価値の探求は、想像力というものを媒介にしてなされていく。その想像力の、命を教えるのが、実は一緒に食べるという場ではないのか。

基調報告 2

「心のよりどころとしての企業」葛西 敬之(JR東海会長)

「私どもの会社には毎年五百人以上の高卒、大卒の社員が入ってくる。そういう人たちの心をどう育むか、ということについてお話ししたい。 心を育むということの基本は、心のよりどころ、即ち何か帰属する場所を与えてあげるということではないかと思います。サン・テグジュペリが『人間の大地』の中の『私たちの外側にある共通の目的によって同胞たちと結ばれるとき、そのとき初めて私たちは呼吸をすることができる』と言っている通りです。 一方、今の日本の状況を鑑みると、滅び去ったフランス第三共和制と同じような状態にある。アンドレ・モーロアの『フランス敗れたり』、ド・ゴールの『剣の刃』を読んでも明確であるが、帰属する価値が分裂し、あるいは割れ、指導者の責任感が希薄化した社会という意味で、今日の日本と1940年のフランスはよく似ているのではないかと思う。 具体的な問題に立ち返り、私たちが社員の心をどのようにして育んでいくかについて触れてみたい。会社としてのことを考え直したのは平成2年のことである。国鉄時代の末期に採用を全面停止して以来、約八年間も新人採用をしていなかったので、その間に、良きにつけ悪しきにつけ、社員教育のノウハウが失われており、JR東海になって新しくつくり直した。 当社の基本は、「会社はあなた方の家である、会社の中の同僚はあなた方の家族である、そして、会社は、少なくともあなた方が働いている間、あなた方に職場を提供することができるであろう。安心して大家族の一員となりなさい」ということから始まる。その環境の中で、茶髪やピアスをしている現代の子供たちも入社一年後には世界で一番すぐれた鉄道員になっていく。現在のさまざまな問題を持ちながら育ってきた高校卒業出の男子・女子も、極めて立派な社会人になっていくだけの柔軟性を持っていると我々は実感している。 当社の教育の根本は三つの柱からできている。第一が集合教育。入社時に、全員を研修センターに入れ、二十人一クラスに分け、一クラスに一人ずつ、大学を卒業して三年から五年たった大学院・大学卒をインストラクターとしてつける。彼らは、受け持った二十人の中から一人も脱落させないよう気を配りながら仕事を教え、あるいは社会人としての生活習慣を教え、毎日日記を提出させ、感想や希望事項、悩み、疑問等を個人別に把握し、1人ずつに返事を書いて意見交換を行う。学校での授業は遅刻が許されたかもしれないが会社なかんづく鉄道では許されないというような基礎的な心構え、今日の学校ではまったく教えられていない集団行動、あるいは、制服の着方、マナーなど細かい部分も教えていく。初任の集合教育はほぼ三か月で完成する。 インストラクターに選ばれた人間は、同期に入った人間の中で将来有望な人間が充当されるが、二十人の子供たちを社員にしていくプロセスを通じて本人も大変な成長を遂げる。 現場に出た後は、新入社員五人に対して一人ずつ、アドバイザーという、入社三年から五年たった大卒の社員をつける。毎日随時電話で連絡をとり合い、仕事の悩み、人間関係の悩み、あるいは私生活の中における問題等について、つぶさに情報を把握する。そして、一か月に一回、彼らと夕食をともにし一体感を養う。それを二年間続け、その後四年間をフォローアップの期間として、同じように連絡をとりながら半年に一回、会合を持つ。各アドバイザは社会人の兄貴のようなものであり、社会人としての常識、身辺の問題などすべての面で安全対策としての大きな意味を持つ。 その成果は、社員の離職率が毎年1%程度という非常に高い定着率に表れていると思う。この現実は新入社員が会社に対する帰属感、あるいは精神的よりどころを求めているということの証左であり、鉄道の安全かつ正確な運行の担保となっている。 一方、現場では4~5人のQCグループをつくり、業務を改善するための自主活動、あるいは個人として何か業務改善提案をする活動も推奨しており、社員の過半の者がそれに参加して努力をする。これらはみな自分の時間で行われる。 その結果、国鉄時代における東海道新幹線の列車の平均遅延時分は約3・1分だったのが、JRになってからの10年平均は0・7分、そしてその後の5年平均は0・4分に減り、一昨年は0・1分だった。昨年度は0・7分だったが、これは台風が多かったということで、ストライキやサボタージュ、機器の故障等によるおくれなどは皆無になった。 100万キロ当たりの運転事故件数も国鉄時代は約2件だったのが、現在、JR東海の場合はその五分の一に減少している。安定、正確な運行能力こそが安全の要である。それに対して労働生産性は、国鉄分割民営で約二倍に上がったうえに、この18年間でさらに5割向上し、2006年度末には8割アップとなる。 心の拠り所ということを日本の社会に当てはめて考える場合、一体どういう方法論がありえるのだろうか。抽象的な価値観だけではなく、行動を通じて体得しながら、心のよりどころをつくっていくことが大切だ。心をよせるべき形の基本は家族であり、学校であり、そして企業であり、地域社会であり、最終的な単位として国家ということになるのだと思う。 国家は民族というものと裏腹であり、会社は僚友というものと裏腹になっている。それぞれの人にとって、所属する組織、所属する社会というものがあって、その一員になるということを常に体験的に感じられるような形にしてあげることが大事だ。座標軸がなければ座標が定まらないのと同じことだ。 日本の場合、戦後の歴史は、国家を否定し、そして家族を破壊するということの歴史だったように思う。今、我々に必要なのは、それに新しい意味付けを行うこと、あるいはそれにかわる何かがありえるかを考えてみるべきだ。 戦後は国や家族に代わり、企業だけが曲がりなりにもその役割を果たしてきたのだが、冷戦の終結とともに企業の業績が下がっていく中で、企業はリストラの時代に突入し、期待できなくなった。私どもの会社はたまたま冷戦終結前に会社が崩壊し新しい体制で再出発したこともあり、安全を守るという観点から、人を大切にし、組織を大切にし、技術を重視しやってきた。そのことが社員に心のよりどころを与えてきたように思う。

自由討議

「葛西さんのお話を興味深くお聞きしたが、私どもの研究所はむしろ多様性を、できるだけ研究者たちが違った考えをしようということになっている。所員の10数%が外国人で、どういうふうにマネジメントし、研究者たちが幸せに、組織の自覚を持ってやれるか、大変苦労している」 「基本的には、小・中・高等学校ぐらいまでの間は、基礎となる知識を徹底的にたたき込むべきであって、小学生に、自発性、自主性、クリエーティビティーを求めるから勉強はほどほどでいいよというのはやはり間違っていると思う。小学生時代は、やはり学ぶことは勉強であり、思うことは空想であり、そして行うことは遊びであるという、ばらばらであっていいという時期と、四十も超えた社会人がばらばらであったのでは何の役にも立たないということになる」 「家族についてだが、採用試験の面接のときに、旧労働省、今の厚労省からの指導で家族のことは絶対聞いてはいけないことになっている。『お父さんの仕事は何ですか』『兄弟はどうですか』という質問はまかりならんと。職業によって差別するのではないか、家族構成によって差別するのではないかという。しかし、私たちが新入社員を迎えるに当たっては、その人がどういう家庭生活、成長過程を経てきたかということは、聞きたくて聞きたくてうずうずしている。生身の人間が向かい合ったときに、その人から何を聞き出すかということによって人材の優劣というのは決まってくる。 十年前に人事部長だったとき、受験生に『君の趣味は何だね』と聞いたら、『魚の目を見ることです』という。魚の鮮度を見るのが僕の得意芸、趣味だと。その受験生はぽろっと自主的に『うちのおやじはすし屋です』と話してくれた。『一緒に買い出しにも行く』という。政府の指導にも、もう少し家族関係、家族について知り得るようなストロークプレーが欲しいなという感じがする」 「教育するという問題では、会社であろうと学校であろうと、褒めることとしかることが非常に重要な問題ではないか。そのバランスをとるためにも、相手の人間のライフヒストリーを知っておくことが、ある程度必要だ」 「鷲田さんのお話は大変大事なことと思う。難しいのは、子供が、食事をみんなで一緒にすることの意味がわかるかということだ。朝食をほとんど食べない子供たちと、毎日、食べている子供たちと、それから時々食べる、時々は抜けるという四グループに分けた研究がある。小学4年生と中学2年生のデータがあり、毎日食べるという子供たちの中には、疲れやすいとか、頭が痛いという訴えを持つ子供が非常に少ない。一割程度だったと思う。ところが、ほとんど食べないという子供たちは、4割から6割近くが、そういう訴えを持っている。これは、ある一面では、真実を示しているかもしれない。 夕食までを含めると、大変難しい議論になる。お父さんもお母さんもお勤めがある。それを越えて、子供たちと一緒に食事をするには、どういうことを乗り越えなければいけないか、みんなで考えなければいけない」 「生活形態、労働形態という根本にかかわる問題だ。私たちの社会では、通勤時間が長いという形態が、夕食を家族そろってとることを難しくしている。心を育むということで一番コアになる幼い時期に、例えば育児休暇を夫婦が交代でとるなりして、きちっとやっておけば、あとは結構乱暴なことをやっていても、もつのではないか」 「鷲田さんがおっしゃったことは、すべてそのとおりだと思う。摂食障害は、しばしばコミュニケーション障害だと言われており、食という一番基本的なことが、人間同士の関係をつくる行為につながる、その基礎になるということもそのとおりだと思う。お聞きしたいのは、鷲田さんが基本的な生活の問題でとりわけ食にウエートを置かれるのは、口という器官が非常に多様な機能を持っているからというお考えだからなのだろうか」 「なぜ食なのかというご質問だが、衣服なら半年同じものを着ていても生きられるが、食べ物は一日に何度も食べないといけない、あるいは飲み続けないと命がもたないからだ。窮迫性というか、生き物としての一番根っこのところに深くかかわっている。ただ、それが生物としてという意味ではなくて、乳飲み子でも、おなかが減っているのに食を拒否することがある。哺乳瓶のミルクがふだんより一、二度低かったり、高かったりすると、子供は乳首をかんで拒否する。 あれはまずいから拒んでいるのでも、おなかが減っていないから拒否しているのでもなくて、母親あるいは父親の気持ちが、こちらにきちっと向いていない、せかせかほかのことを考えているという事態を拒否しているのではないだろうか。 お年寄りの介護施設でも、同じような例が見られる。私の父が施設にいるときに、お昼時によく行ったので食事の様子を見ていたのだが、一人のスタッフが、例えば一つのテーブルで四人の方の世話をする。そうすると、前の人にスプーンで食事を上げているときに、大丈夫かな、こぼれていないかなと、目は隣の人を見ている。これは、たまらなくプライドを傷つけられることだろうと思う。機械のように口に入れられているのだから。 そういう施設でも、食に変調を来す方がすごく多くいらっしゃるそうで、食に関心を失ったり、食欲自体を感じなくなったり、何より早食いの人が多い。人と話すとか、あるいは外を見るとかしながら食べるのではなく、食べることだけに関心がいくと、ものすごく早食いになってしまうことがある。 私たちは、人とのコミュニケーションで食に関する言葉をよく使う。無理難題をいわれると、そんなことはのめないとか、そんな振る舞いはいただけないとか。あるいは人の感受性について、テーストという言葉、趣味という言葉を使うが、これも味わい、味覚から来ている。こういう美的感受性のコアにも、ヨーロッパの人たちが、それを味覚という言葉に代表させてきたことの意味は、やはり重いものがあるのではないか」 「家族ということは、とても大事な、貴重なお話だと思う。今の若い人たちにとっての家族が、今後、一体どういうことになるのか。それは、我々が若かったときの社会背景とまた違う面があって、それを考えに入れていかないといけないのではないか。 その最大のことの一つは、人口が減少して高齢化社会になっていくという、近代の日本にはなかった現象が起こることだ。30代、40代、50代になっても、あるいは違う仕事をしても、何度も人生を繰り返していける時代がやってくるかもしれない。中年の人たちにとっても希望のある、自分を生かしていける時代がめぐってくるかもしれない。そういうことになると、なおさら外にいる時間と家で食事をする時間とどういうふうにバランスをとっていくのか。 大学に入学してくる学生と自分を重ね合わせたときに、今の学生にとって太平洋戦争のころ、あるいは私が生まれたころと今の学生が生まれたころの年代の差というのは、私にとっては、ほとんど日露戦争と同じぐらいのものがある。実際に年表をつくると、今の若い人たちにとっての太平洋戦争は、私にとっては日露戦争とほとんど同じという年代間隔がある。だが、私にとって日露戦争はほとんど漫画というか絵の世界だ。 これからの子供たちにどういう家族の姿を見せていけばいいのか。我々が小さかったころのことを思い出して、それを反映させることと同時に、一方で、これからの時代のあり方を見通さないと今の若い人たちの家族設計にはなかなかなっていかないのではないか。例えば小さい、2歳、3歳、4歳のころの食のあり方と、大学生にとっての食のあり方というのは、小さいころの食のあり方さえしっかりしていれば、大学生の食のあり方は、ほんとうに友人等とのコミュニケーションが主体であっても、耐えられるような気もする。 いずれにしても、そういう歴史性、それからこれからの未来への家族設計を考えに入れていくべきではないかと思う」 「教育というのは、だれがやるのかということについて、ちょっと混乱が生じているのではないだろうか。葛西さんが話されたように、企業は、半人前の人間を受け入れて自分のところで教育する以外、会社として生き残るすべはない、やらざるを得ないと考えている。各家庭は、教育というのは学校がやってくれるものだと思っている。ところが、今ここで我々が議論している内容では、教育は家族、家庭がベストであると思っている。 社会教育という問題もある。現代では、お互いが責任をなすりつけあいながら、だれが教育すべきかということについて、大きな混乱が生じているのではないだろうか」 「例えばヨーロッパで聞くのは、学校は知識を与えるものだと。別に人格的な教育まで全部をやってくれることが教育ではないと割り切って、逆に言えば、家族でも難しいということになると、それは地域のスポーツクラブだという議論が一つある。お互いの分担がはっきりしていないとすれば、そういうものをどこかに強制的につくるのも一つの解決かなと思う」 「人間は帰属する場が必要で、その一番基本が家庭だろうということ。それから、食べるということが、生活の一番基本にあるということ。それから、働くということがある。これを一緒に考えると、今、私どもは東京のパレスホテルで議論をしているが、実は、都会以外の場に、これが一体化したところがある。 今、私は農業にとても関心を持ち、おそらく21世紀、農業が一番大事な産業になるだろうと思っている。地方には、家庭と食べると働くと人間関係とが一体化しているところがたくさんある。この間も東北の花巻あたり、遠野のあたりで、風景も群居、田んぼの中に屋敷林というのがあってその中に家があるという風景を見た。あの農村風景は、東京のそばの埼玉県でもみんなそうだったと思う。 東北新幹線に乗って東京から出て行ったときに、ものすごいビルが乱立しているところからずっと行って風景が変わっていくのを見て、これは20世紀から21世紀へ向けて走っているなという感じがした。みんな、いい顔をして、自信がある。大人に自信があるという、都会ではなかなか見られない顔が、地方にはある。 その方たちが、私たちは一周おくれだから、トップを走っているとおっしゃる。まさにそうだと思う。私たちは確かにいろいろ壊してきたけれども、なかなか壊れないで残っていたものがちゃんとある場所がある。だから、そういう意味で、この問題を考えるときに、もし日本という国を考えたら、そういうところも視野に入れてつくらないと、ほんとうに具体的な実体のあるものにならないのではないかなと思っている。 牛を飼っている子がいて、365日学校に来る。先生が、お正月ぐらいは僕がやってあげるから来なくてもいいよといっても来る。牛の世話をしなきゃならない。それこそ食べることは毎日だから、1週間休むわけにいかない。数学をやりに毎日来る子はないと思うのが、牛の世話をしていると毎日学校に来る。 食べるということは大事だろうが、でき上がったものを食べるということだけではなくて、つくるところから考えていく『食べる』があるのだと思っている」 「先ほど申し上げたように、家庭教育、地域の教育、それから学校の教育みんな大事だろうと思うが、個人として、地域と家庭教育には絶対責任を持たなければいけないと思っている。それを阻むものが、経済至上主義と都市化だろうと思う。 アメリカでも、ニューヨークのような大都市以外は、やはり地域なり家庭を大事にしているのではないか。私の同僚たちも、夕食のときにはちゃんと家に帰って、家族と一緒に食事をして、それからまた大学に戻って12時まで働くということをやっていた。同じことはイギリスでも、ケンブリッジ、オックスフォードでもやられている。日本だけが、巨大都市化が一般化されているのではないか。この連鎖を絶たなければいけない。それを絶とうとしたのが、私はドイツだろうと思う。ヒトラーはいっぱい悪いことをしたけれども、1つだけいいことをしたのは、人口40万以上の都市をつくらないで、中都市化、小都市化にし、人々が真っ当な家庭生活、それから地域生活を送れるようにした。やはりこういうふうにしていかなければいけない。私は、家庭は非常に大事であって、そして特に食事が大事だ。私の父は会社に勤めていて、神戸に住んでいたが、必ず5時半か6時には帰って、私たち子供たちと食事を一緒にしていた」 「何に注目して議論するかということについて、機会を見て、全体のサーベイ、日本全体としてどういう見通しなり実態があるのかということについて、ある程度の共通の認識みたいなものを、私もぜひ持ちたいものだと思っている。 一周おくれというお話が出たが、もっと言えば、おそらくそう考える以外に方法がないという面もあるのではないか。日本のある種のサイクルが、もう回らなくなってきているという面もあるわけで、それはやむを得ない面と、それから積極的な面と、おそらく両方が相まっているというのが、社会的な現実ではないか」 「こころを育む総合フォーラムでは、どこに焦点を絞るのか、心を育むための環境整備にどこまで提言できるかなということだと思う。心を育むということは、心が揺さぶられる体験みたいなものがなければならないと考えている。そういうシーンをどういうふうにつくっていくのかなと考えたい。 それから、環境の整備ということから考えれば、ハードとか社会の装置みたいなものをどうやって提言できるのかなということがあるかと思う。例えば、一周おくれということであれば、地域生活の再発見となる。これはメディアのほうでも変化があり、デジタルというところに入ってきたわけで、デジタルでいいことがあるとすれば、地域を中心とした構想ができる、わりあい細かい地域の情報が上がっていくということで、地域が活発になるということであろうかなと考えている」 「育むべき心は一体何かということは、ある程度、共通理解があったほうがいいのではないかと思う。人はいかに生きるか、いかによく生きるかということに換言されてくるので、宗教とか哲学とかの権威である山折先生、特に鷲田先生に、育むべき心というときに、そういう角度から何が大事かということについても教えをいただきたい。 その場合に、育むべき心の中に、幾つかの段階、レベルというものがあるのか。その辺を学問的に、あるいは社会的にどう考えたらいいのかなという点で、いずれ教えていただきたいと思う。育むべき心の中核としては、今、日本では極めてあいまいになっているが、人として最低限守らねばならぬ戒律、規律、規範といったものが、だれにも教えられないまま大きくなってしまう点があるのではないか。 ある哲学者の本に、あらゆる宗教ないし人間の英知の歴史を通じて、これだけは人として最低限守らなくてはならないというのが三つほどあると書いてあった。うそをついてはならない、盗んではならない、人をあやめてはならないと。 それに対して、現在の子供たちはそうしたことをしっかりと教えられていない。その辺が極めてあいまいになっているのをどうしていくか。私は、今起きている犯罪の9割以上は、この3つが守られればなくなるのではないかと思う。そういう一連の規範というものがあるのではないか。その上に、いかに他者とかかわっていくかということで、寛容さなり思いやり、それから親切なり奉仕といった価値が続いてくる。さらに個人としていかによく生きるかというときに、勤勉性とか誠実とか、さまざまな価値が出てくると思う。さらにその外側、上位には、生きとし生けるものを大事にするなり敬虔なる気持ちを持つ、あるいは感動するといった心があるのではないか。 ある時点で、このフォーラムの前半ぐらいで、そういったことをある程度明確にした上で、諸学の角度から、哲学なり認知科学、あるいは公共政策なり、いろいろな角度から議論していただけたらと思う。それを実現するために、家庭はどうあったらいいか、学校はどうあったらいいか、地域社会はどうあったらいいか、企業はどうあったらいいか、メディアはどうあったらいいかという議論になっていくのではないか」 「育むべき心について、やはり世界水準で考えるべき問題と、ある意味では日本に固有の問題として考えるという二つの見方で考えて、これを統合していくということが重要かと思う。殺すな、盗むな、うそを言うな、この黄金律は、すべての宗教、民族に共通して言われ続けてきたにもかかわらず、人間は殺し、うそを言い、盗む。だから、言い続けられなければならなかったという意味の黄金律だ。それを世界水準でどう考えるか、日本の伝統の中でどう考えるか、その辺を絞り込んでいくということが、おっしゃるように、非常に重要な問題ではないかと思う。 それからもう一つは、三千年、五千年の歴史を貫いて、説かれ続けてきた黄金律に対して、近代になって、いわば普遍的な思想として、新しく言われ始めた問題がたくさんある。例えば正直であるとか勤勉であるとか公正さであるとか、そういう近代的な価値と結びついた心のあるべき姿が、いろいろ議論されてきたような気がする。そういう点では、歴史的な意味で重要な意味を持つ黄金律と、近代社会において、普遍性を持つような、もう一つの側面から見られた黄金律を、ある意味では区別して考えて、しかも統合してといったことを、大きな枠組みとして考えながら議論させていただければと思う。どうもありがとうございました。