活動レポート

山折哲雄 × 鷲田清一第3回 現代の科学者には、どんな教養が必要か?

 

山折座長と対談していただく最初の有識者は、鷲田清一先生です。4回に分けて日本の教養の系譜と、西洋の教養との違いを語ります。今回は、第3回です。

※対談(第1回): 日本人の教養と、根深い西洋コンプレックス

※対談(第2回): 教養をめぐる、経済界トップの勘違い

有識者対談イメージ


専門と人格は切り離せるのか

山折:教養の問題を語るときには、専門とのかかわりを考えることが不可欠です。世界的なレベルで考えると、専門については2つの道があると思います。 ひとつ目は、人間としての成熟がまずあって、その上に初めて知の世界が豊かに花開くという考え方です。単なる知だけでは、専門的な知識としても学としても十分ではない、人格と知の世界は切っても切れない関係にあるという認識です。人格主義的な知ともいえます。 もうひとつは、それまでの知の集積に対して、1ページでも1行でも新しいものを付け加えれば、それこそが専門的な知だという考え方です。自然科学的な知といえるかもしれません。その1行、1ページのためにしのぎを削る、あるいは命を削るというかたちで、専門知を追求するあり方です。 日本の伝統的な知のあり方は、どちらかというと、人格主義的な知。人格抜きの知識は単なる知識にすぎない、断片的な知にすぎない、あるいは血肉化されてない、したがってそれは、社会のためにならない、人を感動させない、といった価値観がついてくるわけです。 その根っこを訪ねていくと、伝統的な儒学者の生き方というものがまさにそうであって、それを何とか近代に継承していこうという動きがあります。そういう生き方を受け入れる専門分野と受け入れない専門分野がありますが、どちらかというと、西洋から入ってきた学問は、そういう生き方を排除して、いかに新しい知を付け加えるかを要求します。新しい発見がないものは、いくら当人であっても、専門家として十分ではないという評価です。 西洋近代の学問のあり方の究極は、やっぱり1ページ、1行何を付け加えるか、あるいは、付け加えてないかにあるのではないでしょうか。 鷲田:それは、現代科学、あるいは近代科学の話ですね。 山折:哲学の歴史の中ではそういう傾向は見えませんか。 鷲田:要するに、知識をただ持っているものとして考えるのではなくて、それをどう使うか、あるいはどう生かしていくか、という問題だと思います。つまり、知識の使用という問題です。 あの人はたまたま恵まれた知的才能を磨いて貧しい人や国のために使った、というふうに、その人の生き方まで包含しているのが、先生のおっしゃる人格主義的な知ですね。

理性の私的利用と公的利用の違い

鷲田:カントの『啓蒙とは何か』という本に出てきますが、カントは理性の私的使用と公的使用という分け方をしています。私も若いときは、プライベード、パブリックという文字どおりの意味で軽く読んでいましたが、よくよく丹念に読むとカントはすごいことを言っています。 つまり、理性、もしくは、知性をプライベートに使う、私的に使用するということは、自分が得になるように使うという意味ではなくて、たまたまこの社会の中で、自分にあてがわれた地位や境遇やポジションにひたすら忠実に知性を使うということです。 カントに言わせると、企業人が会社の利益のために、官僚が国家の利益のために自分の知性を使うのは、プライベートな使用になります。だから、普通、日本で官僚はみんな公的に知を使っているように見えますが、カントに言わせると、それは私的使用になるわけです。 では、知性の公的使用とは何かと言うと、「理性」にもとづく思考、世界市民、コスモポリタン的なそれものです。国家、企業や特定の組織のためではなく、それを超えたところで知性を使うのが本当の公的使用です。 そうすると、今回の震災や原発事故でも、何が問題だったか、つまり専門家がなぜここまで信用を失ったかというと、役人の記者会見でも、東京電力の社長の発言でも、誰が見てもカント的な私的使用をしていることからです。企業を守るために、あるいは官僚の責任を問われないように知性を使っている。それを多くの人が直感的に理解したがゆえに、役人も東京電力も信用を失ってしまった。
山折哲雄(やまおり・てつお) こころを育む総合フォーラム座長 1931年、サンフランシスコ生まれ。岩手県花巻市で育つ。宗教学専攻。東北大学文学部印度哲学科卒業。駒沢大学助教授、東北大学助教授、国立歴史民俗博物館教授、国際日本文化研究センター教授、同所長などを歴任。『こころの作法』『いま、こころを育むとは』など著書多数

山折哲雄(やまおり・てつお)
こころを育む総合フォーラム座長
1931年、サンフランシスコ生まれ。岩手県花巻市で育つ。宗教学専攻。東北大学文学部印度哲学科卒業。駒沢大学助教授、東北大学助教授、国立歴史民俗博物館教授、国際日本文化研究センター教授、同所長などを歴任。『こころの作法』『いま、こころを育むとは』など著書多数

山折:僕の体験でいうと、要するに最も普遍的な価値観の源泉というのは、空に輝く星、内面の良心に従うということですね。 鷲田:それを基準として、カントは公共、私的を分けていますよね。 山折:たとえば、大学である教員を採用するかしないかを議論するとするでしょう。そういうときに、個人的な日常生活の態度が悪い人間は、はねられていくわけです。私は専門分野の業績がよければ採用したらいいと、しばしば思いますけどね。 鷲田:日本の場合は、同僚になってうまくやってくれればいい、という話になりがちです。 山折:そういう意味での人格性の悪い引用の仕方というのもありますね。

信頼できる科学者の条件

鷲田:先生が2番目におっしゃった自然科学的な専門について言うと、トップクラスの科学者というのは、これまでの知見を一歩超える、かっこよく言えばパラダイムシフトが起こるぐらいの科学革命的なものを発見します。多くの普通の科学者たちは、そこまでいかなくても、自分の専門領域の中でまだ発見されてないものを見つけ出します。
鷲田清一(わしだ・きよかず) 哲学者 1949年生まれ。京都大学文学部哲学科卒業、同大学院文学研究科哲学専攻博士課程修了。関西大学、大阪大学で教授職を務め、現在は大谷大学教授。前大阪大学総長、大阪大学名誉教授。専攻は哲学・倫理学。『京都の平熱――哲学者の都市案内』『の現象学』など著書多数

鷲田清一(わしだ・きよかず)
哲学者
1949年生まれ。京都大学文学部哲学科卒業、同大学院文学研究科哲学専攻博士課程修了。関西大学、大阪大学で教授職を務め、現在は大谷大学教授。前大阪大学総長、大阪大学名誉教授。専攻は哲学・倫理学。『京都の平熱――哲学者の都市案内』『<ひと>の現象学』など著書多数

それを私流に言い換えると、要するに科学というのは、限界の知恵だと思っているのです。つまり、科学のいちばん大事なことは、「何かを発見する」ことでもありますれども、同時に「まだ何がわかっていないのか」「まだ何が解明できていないのか」あるいは「われわれは科学をどこまでしか知らないのか」という限界を知ることが、科学者としての最低限の能力というか、識見だと思います。 でも今は、その識見が科学者になくなってきています。特に自然科学系や工学系では専門分野がものすごく細分化してきていて、生命科学にしろ、免疫学にしろ、自分たちのやっている研究が、生命全体の中でどういう位置づけにあるのかが、わからなくなってきている。生命全体で見たときに、「自分たちはたったこれだけしか知らないのだ」という識見を持てていないことが、科学者に教養がないことの意味ではないかと思います。 いくら細かいことをやっていても、これが現在の知の全体の中でどういう位置にあるかを理解し、わからない領域がまだまだあるという限界の認識を持てるということが、ちゃんと教養があり、信頼できる科学者の条件なのではないかというのが、私の考えです。 山折:もう40年ぐらい前かな。あるロケットを開発する分野の学者と対談させていただいたときに、彼が今も忘れられないことを言われた。彼は「技術の世界にとって不可能と言う言葉はありません。技術の辞書に不可能という言葉はありません。すべて可能にできる」と言ったんですよ。 鷲田:まさに教養のない……。 山折:その方は、科学の分野では不可能の世界があると言っておられたから、科学者として見識のある方ではあると思いますけれども、しかし、技術の世界に果たして不可能は存在しないのか、という問題は残るんですよ。

山中さんに問うてみたいこと

山折:たとえば、今世界の脚光を浴びている山中伸弥さんのiPS細胞について言うと、それは大変な仕事をされたと思います。あの山中さんの仕事によって、どれだけの不幸な人々が希望を持つようになったかしれない。しかも山中さん自身が、科学者として非常に謙虚な方で、いろんな人々のことを思いやりながら、自分の研究を進めておられる。それ自体はすばらしいことです。 ただし、もうひとつ重要なのは、あのiPS細胞によってこの先、卵子や精子を作ることができるようになったということですね。そうすると、受精卵を作ることができ、生命を作ることができるようになります。技術としてはそこまで来たということです。これは生命科学の革命ですよ。 山中さん自身も、記者会見で生命倫理上の問題にも触れて、研究者だけでなく一般も含めて広く議論すべきだと言われていました。それはおっしゃるとおりですが、そのうえで私は、「科学者としてのあなた自身の責任はどうなのですか?」「科学者の社会的責任はどうなのですか?」と山中さんに問いたいと思いました。単に哲学的倫理の専門分野の人間に考えてもらう。宗教家がどう考えるのかというだけではなくて、科学者としての責任はどうなのかということですね。 今の社会は、アカデミズムもメディアも山中さんの仕事を絶賛しているだけで、ほとんど生命倫理上の問題に深く批判的に触れようとしてはいません。これを言うと、社会から強大な圧力を受ける、そのような不安と恐れがあるのでしょうが、やっぱり誰かそのことを正直に山中さんに問わなければならない。 だいたい、ノーベルの問題意識はそこから出発しているわけでしょう。ノーベルがノーベル賞を作ったのは、ダイナマイトを作ってしまったことへの科学者としての罪償感があったからではありませんか。それから、湯川秀樹にしろ、アインシュタインにしろ、原爆を作ったという罪償感から、戦後は平和運動へと身を転じていったわけです。 そういう伝統を、今、最前線にいる山中さんはどうお考えになるのか。科学者自身の社会的責任をどうお考えなのか。おそらく、これは教養の究極の問題にもかかわってくるのだろうと思うのです。 私は決して山中さんを単に批判しているわけではないのであって、ただただそのことを問うてみたい。 鷲田:科学哲学の分野で、今、こんなことを言うんですよ。山中さんという固有名詞を別にして、どこの分野でもいいのですが、最先端の研究者というのは、専門研究者ではなく、特殊な素人だと考えるべきだと。 山折:なるほど。 鷲田:つまり、ものすごく細かい、ある領域では世界トップクラスで人類の中でもいちばん先端を研究しているけれども、人文社会的な知見どころか、同じ生命科学でも、隣接領域ちょっと横のことになったらさっぱりわからない。それはわれわれ素人がさっぱりわからないのと同じぐらいわからないのだと。ましてや、この人たちは、哲学や歴史学の分野で何をやっているかはまったくわからない。だから、現在の科学の専門研究者というのは、「特殊な素人」、自分の専門領域のことだけ、あることについてだけよく知っているただの素人なんだと。 これは、先ほどの私の言葉で言うと、自分の研究が人間の全体の中でどういう位置にあるか、歴史的な経緯を知らないし、また知ろうとしないということです。彼らは知らないんですよ。なぜなら、彼らは過去の研究を読む必要を感じないからです。われわれのような人文系の哲学者は、思想史の中でニュートンを読んだりしますが、彼らはニュートンどころか10年前の論文を読む必要もありません。 だから、自分のやっていることが、地位全体、科学全体の中でどういう位置にあるかという位置づけもしないし、歴史の中でどういうところにいるのかということも意識しないまま、ただ研究しているだけです。

研究者はなぜ尊敬されなくなったか

鷲田:昔であれば、研究者というとかなり尊敬を受けていたでしょう。なにかこう、自分たちにはできないことを、ものすごく恵まれた才能を生かして、しかもそれがものすごく将来の人類の福祉、あるいは安寧のために役立つようなことをしているのだと。だからみんな「先生、先生」と呼んで、「あんなに突き詰めてやっているのだから、普段は道徳に反することやボケたことをしても、まあ大目に見ましょう」という雰囲気があったじゃないですか。 山折:岡潔の場合はそうですね(笑)。 鷲田:昔は、変人でも何かすごいことをしているのだから、という尊敬がありましたが、今はそれが全然なくなってきている。それはやっぱり、彼らが特殊な素人になってしまったから。 山折:岡潔は、小林秀雄との対談(『人間の建設』(新潮文庫)に収録)の中でこんなことを言っています。 たとえば4次元の渦巻きの世界から始まって、5次元、6次元、7次元、多次元的な世界がたくさんあるわけです。それを専門家はよく知っているけれども、数学者は、4次元、5次元、6次元の話を3次元のレベルに置き換えて説明できなければダメだと。普通の人でも3次元ならわかりますが、4次元の構造をいくら説明されても、わかりっこないんですよね。 つまり、岡潔という人は、科学者のいわば全体像というか、本来のあり方をちゃんとわきまえていたわけです。ところが数学界の主流からは外されてしまった。そこが問題です。科学の問題は、3次元の世界でどんどん説明してほしいと私は思っています。 鷲田:そのためには、ものすごくイマジネーションがいりますね。 山折:その努力をまず科学者にしてもらう。やっぱり科学的地位のあり方が変わってきていると思いますよ。 鷲田:ただし、科学者はそんなところにエネルギーを使うのはもったいないと思うようになってしまった。科学者が、世の中のことはほとんど知らない特殊な素人になってしまったから、信頼と敬愛がなくなってきてしまった。私は、科学者に教養があるということと、本当の科学者であることは、同じだと思います。 山折:そうだね。 鷲田:自分がやっていることを、まずは科学の世界の中で、ひいては、人類史の中でちゃんと位置づけられる、そして、それを自覚しながら自分の研究を遂行できる、それが本当の科学者である。と同時に、それができる人というのは、本当の教養を持っている、つまりは、自分の専門の外に、いつもアンテナを張っている人ということですよね。
(司会・構成:佐々木紀彦、撮影:ヒラオカスタジオ) ※ 続きは次週掲載します